2007年11月18日

「もしも主が私たちの味方でなかったら」 詩篇124:1〜8

 詩篇の作者はどのような状況下で「もしも主が私たちの見方でなかったなら」という最悪の状況を想定したのか?表題にはダビデによるとあるが、文体や用語から見てダビデよりも後期の著作だと考えられる。旧約学の専門家たちをしても著者は断定できない。しかし、私たち自身の経験の中に「もしも主が私たちの見方でなかったなら自分はどうなってしまっただろう?」といった危機的体験が多くある。それを思い起こすことで作者の立場に立つ。三節以下は「そのとき」ということばから始まる三重の表現だが、「もしも主が私たちの見方でなかったなら」ということばをそこに当てはめて読むことができる。

3節 「生きたままのみこむ」は人間にとっての不名誉で屈辱的な表現。
4節 「大水」は聖書において破滅の象徴的表現。
5節 単なる4節の繰り返しではなく、神なしで自分の力に頼ろうとすることの愚かさを完膚なきまでに叩きのめす箇所
6節 「ほむべきかな」は、私たちは無力だが主は偉大ですばらしいという賛美。「かれらの歯のえじきにされなかった」私たち自身は無力だが、現実として守られている。
7節 「わな」霊的脅威。私たちの信仰を脅かすもの。
8節 「天地を造られた主」すなわち創造主。

 私たち自身は小さな存在であるが、その私たちを造られた主は偉大な方である。私たちはその方なしには、一日たりとも生きてゆけない。過去を振り返って主が為してくださった救いの業に目を留めて感謝をささげたい。そして、同じ主がこれから先においても私たちを守り運んでくださることを信じて歩む者でありたい。