2007年11月11日

「マンガみたいな話」 使徒言行録3:1〜10

 マタイ福音書19章で人々が「イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。」とあります。ところが、弟子たちは彼らをしかりました。でも、イエスは言われました。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(新改訳)

 子どもが人間扱いもされず人の数にも入れられていなかった時代にイエスさまは子どもたちに感心を寄せられました。弟子達は、子どもたちにイエスの言葉が解るはずがないと思ったのかもしれません。聖書は、子どもには神の前に罪が無いとも子どもは天使のようなものだとも言っていません。でも、大人と違って親に完全に依存して生きていかねばならない子どもの「弱さ」の中に天の国が現され、実力主義、成果主義、比較社会では「無価値」な存在としての子どもの性質の中に天の国が用意されていることを教えられたのです。

 子どもだって生きるのは大変です。家庭で、学校で、子ども社会で懸命に生きています。遊びながらルールを学び、人間関係の作り方や生きていく力を身に付けようと一所懸命頑張っています。生きているということは人に言えない苦しみや辛さも時にはあるということです。そのような中、子どもたちがイエスさまが私たち人間全ての人のために十字架にかかり、罪に死によみがえってくださったことを信じることは不思議で、人の頭では理解できないことです。クリスチャンになった子が学校で、自分がクリスチャンであることを友達に言ったらバカにされたそうです。「お前、マンガみたいなこと本当に信じてんの?神さまが本当にいるんなら証拠を見せろよ、そうしたら信じてやるよ。」と言われたそうです。その時、彼は答えたそうです。「僕を見てて」

 使徒言行録に載った生まれつき障がいを持った人に、元は弱虫で欠点だらけで無学だったペトロは言いました。「わたしたちを見なさい」。キリストを信じて、人生を証ししていくことは大人も子どもも変わりありません。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」足の不自由なその人はそのとたん立ち上がって神を賛美し、境内に入っていきました。神を信じれば何でもうまく行く訳でも思い通りの人生になるということではありません。彼にとっては足が治った以上に、彼の人生を支える神を信じる信仰が与えられたことが恵みでした。「僕を見てて」と主イエスにより頼む信仰を証していきたいと思います。