2007年11月4日

「天にある永遠の住み家」 コリント(二)5:1〜10

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」1

 私たちは普段の生活の中でそれほど深く死を考える事はありません。昔から死に関する事は縁起が悪いと言って語る事も考える事も避けてきたのです。しかし、現実には死は健康であろうと、豊かであろうと、すべての人に公平に訪れ、この死から逃れられる人は一人もいないのです。人生に初めがあるように、終わりもあるのです。それを思うと悲しみや、寂しさ、人生のはかなさを感じずにはいられません。

 それと同時に、死のあと自分はどこへ行くのか、どうなってしまうのか、不安や、恐れとともに、また、永遠へのあこがれなどを持ちます。何故でしょう?それは「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」伝道の書3:11からなのです。故に、私たちは本能的に死のあとの永遠を願う者となったのです。

 いつか、私たちの心臓も鼓動の停止をします。それは、この肉体が地上における時間が終わったことを意味します。しかし、決して落胆することはありません。それで終わりではないからです。「地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている、それは天にある永遠の住みかです。」1とあるように、神が私たちに永遠の住まいを用意してくださっているからです。

 更に、神はそこに行く道をも備えてくださいました。それは、私たちのために十字架について復活されたイエス・キリストを信じる信仰による道です。「はっきり言っておく、わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得。また、裁かれることなく、死から命へと移っている」ヨハネ5:24イエス様を信じる者は、罪が赦され、お帰りなさいと迎えてくれる天の父のもとに行き永遠の住み家で、先に召された愛する人たちと再会し、過ごすのです。

 イエス様は仰せられます。今この御言葉を信じ、私を受け入れるなら「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいる。」感謝、まさに「死は勝利に飲み込まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」コリント(一)15:55