2007年10月28日

「祝福の家」 マタイによる福音書7:24〜29

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」

 人間、順風満帆人生がうまく回っている時には感謝の心も湧いてくるものです。しかし、「何故、自分にこんなことが・・」と思うことが起こる時、私たちの心は出来事に翻弄されてしまいます。自分にとって都合の悪いことが起きた時こそ、自分の人生の土台が何であるのかを思い知らされます。この世で、揺るぐことのない土台というものはありません。イエスは、私たちに不動不屈の精神を身につけなさいとか、揺るがない人間になるよう努力しなさいと言っておられるのではありません。そうではなく、揺るがぬ方を信じ受け入れる人となる事を求めておられるのです。

 祝福や恵みは、自分の力で獲得するものではなく、受けるに値しない者が上より注がれて溢れるものです。人生の中で起るさまざまな出来事を主にあって「生かされている」「与えられている」という視点で捉えることができるなら、その風景は変えられていきます。イエスの教えの全ては、ご自身の命を保証として語られています。それを聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家、すなわち人生、そして命をかけた賢い人だとイエスは言います。岩とは「主イエスを信じる信仰」です。そして、信じた人は賭けに負けることが無いと言います。最大の賭けとは人生を揺るがす最大の試練、「死」に勝利するということです。

 恵みによって救いを受けた使徒パウロは苦難を喜びとし、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと告白しました(ローマ5:3)。しかも失望に終わることのない希望が生まれると言います。それを与えてくれるものは「信仰」であり、「信仰」は聞くことによるのです。

 教会は、多種多様な人たちが集ったものです。しかし、それは趣味や意見、考え方が合う人たちが集ったものではありません。ただ一つ、主イエスの福音を聞いて悔い改め、罪からの救いを信じ受け入れた人々が集う所です。それぞれの生活では雨も降り、川があふれ、風が吹いて倒れそうになることもあります。でも倒れません。地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てたからです。その家にはいつもどんな時にも祝福があり、主の支えがあるからです。