2007年10月21日

「神の畑」 マルコによる福音書4:26〜34

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 宗教は悩みや苦しみがある人のためのものと考えている人は多いです。でも、万が一自分の力だけではどうしようもない事が今日起きてしまったらどうでしょう?世の学校はこの世で生きていくために必要な知識や訓練、常識や道徳といったものを教えてくれますが、命に関わるいざという時の対処の仕方については教えてくれません。教会はイエス・キリストの学校のようなものだと言った人がいます。私たちの教会は、いざという時に動じない心を育てる神の畑となるように願っています。

 「からし種」はこの世では最も小さな種のうちの一つです。神の国は、それ程小さく見落としがちで普段は相手にもされないものです。それは、天国でもあり、み言葉でもあるとイエスさまは言いました。ヤコブは「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(1:21)」と言います。み言葉は、格言でも戒めでもありません。もちろんそのような意味もありますが、み言葉には命があるということです。どんな素晴らしい言葉でも命がなければそれはこの世だけでしか価値はありません。しかし、私たちの罪のために死んでくださったイエスの一粒の麦としての愛と、その言葉とには命があります。

 「悟り」は宗教でいう心の境地のことですが、イエスさまはみ言葉を「聞いて受け入れる」ことだと言いました(4:20)。小さなからし種の成長は土地の状態ではなく姿勢態度によります。種が芽を出し成長し、実を結ぶようになるには時間がかかります。私たちは、さまざまな試練や悩みを経験しますが、み言葉を中心にして物事を受け止めていく心によって種は成長します。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい。(1テサロニケ5:16-18)」とのみ言葉は生活の灯火です。下に置いたり隠しておくものではありません。

 み言葉はいくら勉強し、知識を増やしても生きたものとなりません。生活のただ中で、自分の見識や考えを中心とするのではなく、み言葉に聞き、受け入れ、自分の心の中心にみ言葉をもって来る時、生活に命が宿りはじめます。キリストの学校の生徒の役割は、世の悪を滅ぼすこと、正義を行うことではありません。み言葉を聞いて受け入れ、生きる人になることです。成長させることは神のなさることです。