2007年10月14日

「古い自分にさようなら」イザヤ書53:5〜6

 私たちは神様によって導かれ、イエス様の十字架の元に来る事が出来ました。そして、十字架のイエス様を見上げていますが、しかし、十字架の上から流されている血が一体、誰の為に流されたのか、私を罪から救うためにイエス様が十字架に付いて下さったと言う、その大きな恵を忘れてしまったら、ただの見物人として十字架を眺めているだけで、イエス様と私の間には何の関わりもなくなってしまうのです。

 あの、イスラエルの民が神によってエジプトの奴隷から救い出され、モーセと共に新しい人生の出発を始めました。向かうところは神様が約束された地カナン、距離は約300キロ、1日10キロ歩けば1ヶ月で着く所です。しかし、イスラエルの民は、食料や水さえ確保するのも難しい荒野の中を何と40年間も歩み続けたのです。その生活は、飢えそうになると天からマナが降り、喉が渇くと岩から水が出て、昼は霊の柱を持って、夜は火の柱を持って神はイスラエルの民を支え導かれました。しかし、彼らは40年間、食べ物がない、水がない、モーセがいない、エジプトに帰りたいなどと文句を言い、いつも神とモーセに逆らい続けたのです。

 では、私たちの信仰生活はどうでしょう。いつもイエス様が共に居てくれて、私たちが辛く悲しい時には慰め、倒れそうになった時には支えてくれて、傷ついた時には癒し、失望した時には希望を与えてくれた。イエス様は私たちにたくさんのものを与え、満たして下さり、罪をも許してくださりました。でも、イスラエルの民と同じように、私たちも神に逆らい、背を向け、文句を言っていないでしょうか?私たちが本当に安定した信仰生活を求めようとするならば、神に逆らおうとする自分を十字架の上に付けてしまわなければなりません。

 パウロが「わたしは、キリストと共に十字架に付けられています」ガラ2:19と言いました。これは、イエス様と一体になると言う事です。イエス様が十字架に付けられた時、私も一緒に十字架に付けられ、イエス様が十字架で死んだ時、私も一緒に死んで、イエス様が墓に葬られた時、私も一緒に墓に葬られ、イエス様が復活した時、私も一緒に復活しました。これこそが私たちの信仰であり、過去の生き方と決別する事なのです。キリストと共に死んだ者は、キリストと共に生きるのです。この御言葉をしっかりと私のものにしていきましょう。今、生きているのは私ではなくい、キリストが私たちの中に生きているのです。「古い自分にさようなら」をしましょう。