2007年10月7日

「たとえそうでなくとも」ダニエル書3:13〜23

 人は自分の力で何でもやれている時は何かに頼るということはないものです。物事がうまく行っている時は尚更です。そして、意外と人間というものはお調子者で、とんとん拍子に事が運ぶと全てが自分の力でなんとかなると思ってしまうものです。そして、人が権力をもってしまうと自分自身を神としたり、自分の都合の良い神を祭り上げたりしてしまいます。しかし、自分でもどうにもならないことや苦しみを経験した人は現状を受け止め、受け入れ感謝することを学んでいくことができます。 

 紀元前600年頃ユダ王国を支配したネブカドネツァル王は父ナボポラッサルがバビロニアの独立を果した後、勢力を伸ばし、ユダ王国を攻め支配し、一部の人たちを国に連れ帰りました。その中に少年ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤがいました。ある時王は夢を見、不安にかられます。強い人ほど不安は深いものです。国中の占い師、祈祷師、まじない師、賢者をもってしても夢の謎解きはできませんでしたが、ダニエルは主なる神により明かされた夢の意味を解いたのです。それは、王にとっては都合の良いものでした。王はダニエルの信じる神を真の神と信じますが、すぐさまそれを忘れ、調子に乗って金の像を作り国中の者たちを拝ませました。自分中心、人間中心の信仰の都合の良さを感じさせる出来事です。

 しかし、名前を変えさせられた少年達のうち、離れて住んでいたダニエルを除いたシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは金の像を拝むことはありませんでした。王は怒りに燃え、彼らを燃え盛る炉に投げ込ませる命令を下しました。それに対し、シャドラク達の信仰は神中心のものでした。彼らの信仰は、どんな状況からも神は必ず救うことのできる方、必ず救ってくださる方と信じるものでした。しかし、最も試される信仰は、それが叶わなかった時の信仰です。シャドラク達は告白しました。「たとえそうでなくとも信頼する神以外拝むことは決してない。」

 私たちは人間です。弱く恐れを持ち、不安なことに直面する者たちです。しかし、真の神はそのような私たちをまるごと受け止めて下さいます。私たちにできることは、その神に信頼して心配を手放すことです。燃え盛る炉に投げ込まれた三人は火の中をかいくぐって何の害も受けず出てきました。炉の中の四人目の人は主イエスを暗示します。危機の時にも共にいてくださる方イエスに信頼したいものです。