2007年9月30日

「天国の貯金通帳」 マタイ6:19−21

 聖書に書いてある、天に宝を積むと言うことはどういうことでしょうか。どのような行いをすれば、天に宝を蓄えることができるのでしょうか。

 天に宝を積むということは、ただ人に見せるような「行い」によるわけではありません。それどころか聖書には「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ6.3)と言われています。自分の行いを強調すればするほど、天の宝を失っていくのかもしれません。しかし、私たちは、自分の行いをいつも他人に評価して欲しいのも事実です。

 私たちは、他人の良くない行いについては簡単に気がついてしまうのですが、他人の良い行いにはなかなか気がつかないものです。ですから、気がついてもらえない自分は、自ら進んでその事を話したくなり、そしてその事を評価して欲しくなるものなのではないでしょうか。

 私たちは自分の価値を認めてもらいたい。評価をされたい。みんなに認めてもらいたいのであります。そうした、「右の手のしたことを左の手に伝えたい動物」である私たちは、一体どうしたら良いのでしょう。

 また一方で、自分のやったことが人の目にとまらないだけではなく、本当にやりたくても人々に評価されるような活動ができなかったり、あるいは、そのやる気すらも起きずに、途方に暮れていたらどうするのでしょうか。

 寝たきりであったり、身体が動かせない、病で病床から出られない。気持ちが整理できず、動き出せない。やりたくても時間が無い、条件がとにかく全くそろわない。そういう場合は一体どうしたら良いのでしょう。

 しかし、神さまはおっしゃいました。聖書は語っています。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」イザヤ43:4

 たとえ自分の行いが認めてもらえなくても、また、つい自分の行いを吹聴してしまうような私たちでも、あるいは、自分の存在価値が無いのではないかと心配するような状況でも、神さまは、あなたのことを「高価で尊い」と認めて下さっているのです。

 聖書で言われる「右の手〜」ということができない私たちです。他人に認めてもらいたいと、あせる私たちです。

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)と聖書に書いてある通りの私たちです。

しかし、神さまはきょうも「あなたは高価で尊い」 と語りかけて下さいます。

 天国の貯金通帳の残高を気にすることなく、人の評価を気にすることなく、神さまに向かって歩み続けていきたいと思います。