2007年9月16日

「老いの力」 イザヤ書46:3,4

 「わたしに聞け、ヤコブの家よイスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

 一時期、老人力という言葉が流行しましたが、それは歳をとって失っていくものや衰えていくことの中に未知の力があることを発見するところから生まれた言葉でした。人は、外面的な体の衰えや変化に孤独やあせりを感じるものですが、何よりも私たちを不安にし、ひがみっぽくさせるのは、自分がもはや人に必要とされていない、現役としての自分は終わってしまったという感情ではないでしょうか?伝道者の書で著者は「空の空、いっさいは空である。」と言いましたが、しかし、だからこそ「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。年を重ねることに喜びはないという年齢にならないうちに。」と創り主を知ることの大切さを語ったのです。

 イスラエルの人々の問題は、真の創り主なる神を知っていながら、自分の力に頼って滅びを招き続けて来たことでした。若い時のイスラエルは勢いがあり、神よりもむしろ人間の王により頼み、自らを誇って生きていました。しかし、彼らはアッシリアやバビロニアという強大な国々によって滅び、支配されてしまいました。人間の勝負、実力に負けたのです。私も神無しで自分の力で何でもやれる、しなければならないという時代を通りました。頼りにするのは自分と自分の力だけで、神も人も本当には信用していませんでした。しかし、負けず嫌いの私は挫折や失敗を通して多くを学び、見えぬ神の愛と力とを知りました。歳を重ねることは神を信じる人にとっては誇りであり、恵みです。人間力は人に何ができるかによってではなく、誰を拝んで生きているかによって違ってきます。イザヤは、真の神以外のものにより頼んで生きることの空しさと、真の神を信じて生きる者の幸いとを語りました。詩篇は語ります。「神に従う人はなつめやしのように茂りレバノン杉のようにそびえます。・・白髪になってもなお実を結び命に溢れ、いきいきとのべ伝える。(92:13)」

 老いの力は信じる信仰から与えられる神より出る恵みの力です。そこには未知の力があり、この世が与えることのできない平安を私たちに与え、周りの人々にキリスト・イエスを通して与えられる魂の救いをのべ伝えます。神を畏れ敬うことと、老人をいたわり敬うこととは、神の未知の力を知ることに他なりません。