2007年9月2日

「実りの秋」 ヤコブの手紙5:7〜11

 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」

 人間の徳の一つに「慎み」があると思います。ある辞書では「心をひきしめてひかえめな態度をとること」とあります。先日、何年かぶりに郷里に帰省した折、深く考えさせられたことがあります。夕食後、茶の間でくつろいでいた時、兄は眠くなったのか横になっていました。その時、年老いた母が茶の間を出ていきました。自分の部屋に行ったのです。直後、「バタン」という大きな音がしました。すると眠っていたと思っていた兄が飛び起きて母の方に向ったのです。弟と私は風で洗面所あたりのドアが閉まったのだと思って動かなかったのですが、兄は母の身を案じて身構えたのです。「倒れたかと思った」兄はそう言いました。おとなしく言葉数の少ない兄の母に対する心遣いと慎み深さを見る思いでした。そして、同時に思ったのです。自分には愛が足りないなと・・。亡くなった父以外私の家族にクリスチャンはまだいません。しかし、色々問題があるにせよ家族はお互いを気遣いながら生きていることを実感しました。

 愛の行いにおいて私は劣っています。ヤコブは、行いの伴わない信仰は死んだもの(2:26)と言います。彼は良い行いをしなければ救われないと言っているのでしょうか?そうではなく、クリスチャンではない人と比べて、こんなにも愛が足りなく駄目な自分にもかかわらず恵みによって救われていることを思い知りなさい、と言っているのだと私は思います。こんな私さえも愛したもう神を信じて慎み深く生きて行こうと心に決め忍耐していくことが信仰です。この世にはクリスチャンでなくとも自分の試練に黙々と耐えて生きている人、希望や信仰について語らずとも日々の苦労を受け止め、なおかつ誠実に生きておられる方々も多くいます。ならば待つべきもの、与えられる報いの約束をいただいている私たちは、尚更忍耐せずにいられるでしょうか?

 秋の雨と春の雨とは、種が芽を出すための雨、実を実らせるために必要な雨と言われています。ヤコブは言います。「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。・・御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。(1:16-18)」 イエスにある救いの知らせと、主が必ず来てくださり実りの収穫を与えて下さる約束が、私たちに降り注ぐ神の恵みの雨なのだと思います。教会もそんな雨を受けて育てられます。その日はいつかは分からない、でも必ずやって来る。それを信じて生きるのが信仰です。