2007年8月26日

「それほど言うなら」 マタイによる福音書15:21〜28

 「ユダヤ人が外国人と交際をしたり、訪問をしたりすることは、律法で禁じられています」使徒10:28 ユダヤ人は、自分たちの信仰を守る為に、汚らわしいとされた異邦人との接触や交わりを一切禁止しました。しかし、イエス様はその掟を破り、ツロ・シドンという異邦人の地に入っていったのです。

 そこに一人の異邦人の女性が来て、イエス様に願いました「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください、娘が悪霊にひどく苦しめられています」22。今まで、娘を癒してくれる人はいなかったのでしょう。母親は最後の望みをかけるように、イエス様に憐れみを願ったのです。しかし、ここで思いがけないことが3回も起きたのです。

@、イエス様に何度も願い求める母親に対して「イエスはひと言もお答えにならなかった」23 あの優しいイエス様が、助けを求める母親に何も答えない、言い方を変えれば、完全に無視をしているのです。 

A、さらに願い求める母親に対して「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」24 だから諦めなさいと言いました。

B、母親の最後のことば「主よ、どうかお助け下さい」25に対して「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」26 犬とか豚という言葉は、当時ユダヤ人が異邦人に対して使っていた侮辱の言葉であります。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚になげてはならない」マタイ7:6

 今日、私たちが目をとめたいのは、この母親のイエス様に対する姿勢です。イエス様から答えがなくても、断られても頼り続ける信仰、イエス様からどんなことを言われても、「主よ、ごもっともです」という謙虚な姿であります。

 そんな母親にイエス様はこのように仰せになりました「婦人よ、あなたの信仰は立派だ、あなたの願いどおりになるように、そのとき、娘の病気はいやされた」28「すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです」ローマ10:12 どんなことがあっても主は私たちを見捨てることはないのです。