2007年8月19日

「共におられる方」 ヨハネ福音書14:15〜24

 創造主なる神を信じる信仰を花にたとえて考えることがあります。目に見えない神を自分の力だけで信じることは、切花にたとえられると言います。どんなに綺麗な花でも根がないのでしばらくすると枯れてしまいます。神さまが与えてくださる信仰は一時的なものではありません。また、成長し、実を結ぶ信仰は根がある花にたとえられます。ヨハネ15章で、イエスは実を結ぶ信仰がイエス自身につながり交流をもつことによって与えられることを語られました。しかし、実際の生活の中で信仰を育てるということはどんな事でしょう。

 私が休暇をいただく時、気にかかることが一つあります。それは、教会の草花や木への水やりです。特に暑い夏は心配です。幸い感謝なことにその働きを担って下さる方がいて草花が枯れたことはありません。教会はキリストを頭とする生きた体だとパウロは言いました。しかし、私たちは信仰をいただいたからと言ってそれだけでは成長できません。切花でない信仰、根がある信仰だからと言って安心はできません。教会という生きた関係を持つ共同体の中で、私たちは主にあって生き助け合い、補い合って成長するように出来ています。教会は水を注ぎ、手入れを欠かさず、分かち合っていかなければ枯れてしまう共同体なのです。イエスは「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない(マルコ12:29)」と言われました。それは、神がおられて私たちがいること、自分が先、人が先という順序ではなく、同じように大切にすることです。

 人は愛されるだけでは本当は満足できません。人は愛され、愛するために生まれました。自分の不都合を越えて人を愛するとき、不思議な安堵感を私たちは体験します。教会という共同体も、自分の生活と同じように教会を大事にする時、成長するように出来ています。それは強要でもなく、義務でもありません。その自由と責任の間を補って下さるのがご聖霊です。聖霊は私たち皆を救いに導いてくださり、主に従う弱い私たちの言い訳や失敗を弁護して下さり、私たちの力では成しえないことを実現へと導いて下さいます。そして、聖霊は互いに成長することをあきらめない力と励まし、慰めを与えて下さいます。聖霊は私たちといつも共におられ、教会を建て上げる生けるキリストの力です。