2007年8月5日

「神の招き」マタイによる福音書26:26〜30

 戦後62年目の夏がやって来ました。ヤコブは争いの原因は人間の内なる欲望や人を裁く心、誇り高ぶりる心が小さな火種となり大きな争いや破壊へと広がっていくと言います(ヤコブ4章)。

 平和は食卓から来ると言った人がいます。食卓を囲む人々の心の状態や関係から平和は始まると言うことができます。神は、神と私たちが共に安らぎの中に食卓を囲むことを望んでイエス・キリストを私たちのために遣わされました。しかし、その食卓に集められた弟子達の心と関係は既に壊れつつありました。晩餐を囲むとき、ユダはイエスを裏切るつもりで、ペトロは自分自身に何があってもイエスに従う決心をしたばかりでした。しかし、ユダはおろか、ペトロや弟子達すべてが最後の時イエスを裏切り散らされて行ったのです。

 へブル語で「過去」の意味は、初めの方とか前を現します。過ぎ去った過去が前にあると言うのです。それは、神の視点からみた時私たちの出来事は神に支えられ守られて来たことを知ることを意味します。また「未来」は、終りの時や背後を現します。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない(使徒2:25)。未来が神より先になることはありません。神が共におられることを信じ、委ねて日々なすべきことをわきまえて救いを待ち望むならば主と喜びの食卓を再び迎えることができるのです。神は、イエスを通して準備された「今日」を、神と共に神を信頼して生きられない私たちの罪を赦すために与えて下さいました。

 イエスさまは私たちの罪のために裂かれ、血を流し、新しい契約を神と結んで下さいました。そのイエスが、死に勝利し、来るべき喜びの食卓に招くために、私たちを招いて下さっています。しかし、それは同時に私たちがイエスさまと同じような心裂かれるようなことや血を流すほどの経験を通してもたらされるものかもしれませんが、最後は祝いの食卓に私たちを導くのです。主の晩餐式は最後の晩餐ではありません。来るべき愛と命の勝利を祝う晩餐の先取りです。私たちの教会はそんな神の食卓を囲む人々を招くために選ばれた群れであり、平和のために一人一人が神の前にへりくだり、今日を感謝のうちに生きる群れとなりたいものです。