2007年7月29日

「日々の糧」 マタイによる福音書4:1〜4

 ある落語の話の中に、猫が人間の言葉を喋りだし、飼い主に「食べ物」のことを諭すという面白いものがあります。その中で、猫は言います。「食べ物は栄養があればいいというものではありません。たとえ乏しい材料でも、手間ヒマをかけ、気持ちを注いで作られるものは美味しいんです。つまり、気持ちを食べているんです・・。」

 クリスチャンにとって大切な「主の祈り」の中に、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という一節があります。糧とは主として食べ物のことですが、ここでイエス様が言われる糧は、ただ単に食べ物だけを指しているのではなく、「生きるために必要なもの」という意味だと思います。食べ物以外で、私たちが生きるために必要なものとは一体何でしょうか?空気、水、お金、人間関係・・・。いろいろあると思いますが、一番大切なものは何でしょうか。

 イエス様は荒れ野で40日の断食の後、悪魔から「石をパンに変えて空腹を満たせばいいではないか」と誘惑を受けた時にこう言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 これは旧約聖書の申命記に書かれている言葉をイエス様が引かれたものです。40日間の断食の後ですから、極限に近い状態だったはずです。それでもなお、「神の口から出る一つ一つの言葉」の方が大切だと言われたこの言葉は、非常に重みがあります。「神の口から出る一つ一つの言葉」とは、旧約の時代では預言者から語られる直接の言葉だったでしょう。では、今の時代では何を意味するでしょうか?もちろん「聖書」の御言葉以外にありません。そして、私たちがパンと共に、その聖書の御言葉を日々の糧とするとき、神様の気持ち、神様の愛という何にも代え難い御馳走がそこに用意されていることに気付かされるのです。

 天地万物を六日間でお創りになった神様は、人間の救いなど、その気になれば小指を動かすほど簡単にできた方でしょう。その神様が、わざわざイエス様というひとり子を世に遣わし、人間の罪と苦しみを一身に背負い、十字架にかかって死に、そして復活してくださるという、理解し難いほどの手間ヒマをかけて、私たち一人一人を救いに導いてくださったのです。聖書の御言葉は、その神様の手間ヒマ、気持ち、愛が、まさに凝縮されたご馳走なのです。

 ただの栄養だけで生きていませんか?私たちには日々の糧として、聖書という気持ちのこもった御馳走が与えられています。パンだけではなく、神様の気持ちを食べて、まっすぐに成長して行きたいと思います。