2007年7月15日

「熱心さと忠実さ」 ルカによる福音書12:35−40

 今、日本の社会は年金問題や福祉、高齢過疎化、温暖化、食の安全、憲法、教育問題など多くの問題が噴出し、不安に襲われています。当たり前のことが当たり前ではなくなり、何処に基準を置き、何に希望を置いたら良いのか分からない時代になってきました。いつの時代でも終末を思わせることはありますが、終りの時に対する姿勢について語るイエスの言葉は私たちに不安を感じさせます。しかし、一見厳しく、私たちには不可能と思われるイエスさまの要求は、どのような時代にあっても主と共にある平安を与える約束であることを見逃してはいけません。

 それに先立ち、イエスさまは私たちの生活の不安について父なる神が、誰よりも感心を持ち支え守って下さっている事実を教えています。烏は年金も健康保険も貯金もありません。野の花もエステや高価な化粧品が無くとも美しく着飾っています。イエスの言葉は決して社会制度が不必要だと言っているのではなく、心の基準や拠り所がどこにあるかという問いかけです。不平や不満、不安は自分が「持っていない」ものからではなく、今「持って」いるものへの感謝や大切さの認識がない時に起こります。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」とは終末への態度だけでなく、人生への忠実さを表します。忠実さとは、しもべが熱心に自分の心を燃やし、自分の力で主人の帰りを恐れながら待つことではありません。むしろ、与えられたもの、場所、出来事、立場に対して、与えて下さった方を信頼して誠実であることです。できれば逃げたいけれど、思い直して地道に歩んでいくことです。

 イエスは言われました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ10:16)」。また、「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。(ルカ14:28)」主なる神は、信じる者たちに無理難題を押し付ける方ではありません。それどころか、私たちの日々の必要を満たし、試練と共に居て下さり励まして下さる方です。私たちに与えらているものの中に主の恵みを認めて満たしを受け、家族や地域に住む人々の必要に応える者と変えられていく時、思い煩いからも開放されていきます。忠実で賢い管理人は神様と深い信頼で結ばれている人です。その人は、自分の生きている時代、状況、立場に主にあって忠実な人だと言えます。