2007年7月8日

「祈りの包囲網」 Tテサロニケ1:1〜5

 主の御名が崇められますように。津田沼教会の大塚です。本日は青葉教会の皆さんと共に福音を分かち合える喜びと、幸いを心から感謝致します。

 クリスチャンにとって、祈りはとても大切なものです。しかし、私たちが祈るとき、心のどこかで、祈りが聞き届けられるかという不安や疑念を持ちますが、私たちにとって、天の御父との交わりが赦されるのは、祈りによるしかないのです。イエス様は、事ある毎にいつも一人で祈っておられた。「朝早く、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」マルコ1:35

 そして、言われます「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」マルコ11:22-24 私たちが祈りの大切さを知る時、主は、私たちを福音宣教のために備えて下さり、整えて下さるのです。もし私たちが、自己の保身のため、或いは、欲望を満たすために祈るなら、御心に適う事はありません。

 つまり、主によって聞き届けられることがないのです。私たちが福音宣教のために祈るなら、私たちに必要なものは主が備えてくださり、全てが与えられるということです。「あなたがた、私たちの主イエス・キリストの恵を知っている。即ち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富むものになるためである」Uコリント8:9

 私たちは、イエス様の生命に生かされ、どんな小さな捧げ物も受け入れて下さる主に、私たちの信仰を持って仕え、献げていく事です。このように、私たちが、本当に主に生かされている事を知った時、私たちの思いには、ただ感謝しかありません。主が私のために貧しくなられた、そして私が豊かな者とされた。私たちは、ただ主に感謝の祈りを献げるしかありません。この時、私たちは、傲慢な者からへりくだった者とされ、主の御前において、本当の自分自身を献げる事ができるのです。イエス様は、私の為に貧しくなられ、今も私の為に祈って下さっておられるのです。(大塚恭一牧師)