2007年6月24日

「弱さは宝物」 コリント(一)1:18〜25

 当時、ギリシャの町コリントは商業的に繁栄し富と贅沢に満ちていた。その反面、不道徳が広がり、堕落と邪悪な町としても有名でありました。パウロはそこに福音を持ち込んだのです。コリント教会もその影響の中で、争い事がご起こり、それぞれの心が神から離れ人間に向いていました。そこでパウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」1:25 と書いた手紙を送ったのです。

 パウロの言う「神の愚かさ・弱さ」とは何でしょうか? それはキリストの十字架であります。如何なる宗教であろうと、神が人間の手によって殺されたなどと考えられるでしょうか。もし、神が人間の手に落ちるようであれば、神は人間よりも弱いものになります。そんな弱い神に一体何ができるのかと誰でも思う事であります。また、死んで甦ったなどと、あまりにも愚かな話しであり議論の対象にもなりません。この十字架と復活の出来事は、人間の基準から見れば、ばかばかしくて、愚かであり、何の価値も見出すことはできませんでした。

 では、「神の賢さ、強さ」とは何でしょうか? 「神は世の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」1:19まさに、イエス・キリストの十字架と復活は、私たち人間の知恵を遥かに超えた出来事であり、理解する事は出来ませんでした。これは「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」1:21と言われているように、これが神の知恵なのです。しかし、このばかばかしい出来事が、もし、私のために起こったとしたらどうでしょう? 決して愚かなことではありません。人間の力、努力、知恵、強さ、何を持ってしても獲得することは出来ない救いの道が、愚かな十字架と復活を信じる信仰により無償で与えられるのです。「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」1:18

 弱さは宝物とは パウロは、私は信仰があるから大丈夫などと高慢にはならず、自分の弱さを認め受け入れてキリストに従いました。それがパウロにとって大きな武器になったのです。弱さ知っているゆえに自分の力を過信する事なく、弱さゆえに祈り、弱さに耐える力も与えられました。パウロは弱さの中から「力は弱さの中でこそ発揮されるのだ、むしろ大いに弱さを誇りましょう」(二)コリント12:9を発見したのです。弱さは宝物です。本当の強さは弱さを知る事で分かるのです。