2007年6月10日

「イエス・キリストの御名によって」使徒言行録3:1〜10

 「生まれながら、足の不自由な人が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日、「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた」3:1

 本日は、足の不自由な人がイエス・キリストの名によって立ち上がった奇跡を通し、次のことを学んでいきたいと思います。

 1、私たちの心はどこに向けられるべきか

 彼は毎日、神殿の入口に座らされていました。ある意味、神殿にいながらと言っても良いかも知れません。彼は決して神に助けを求めることはせず、人からの施しだけを当てにしていました。ここに私たちの神様と出会う前の姿を見る事ができます。では神様と出会ってからはどうでしょうか?私たちは毎週教会に集いますが、本当に神様に助けを求めているでしょうか?教会で人と交わる事はとても大切です。人からの励ましを受ける事も大切です。しかし、自分の心の満たしや助けを本当に求めているのであれば、神様に心を向けていかなければなりません。

 2、 不十分さの中で働いて下さる神

 ペテロとヨハネは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」3:6

 私たちはいつも、自分に「ない、ない」と言って嘆きます。才能がない、時間がない、力がない、お金がない、あれがない、これがないと。しかし、神は、その「ない」という状態の中に働きかけてくださるのです。ペトロとヨハネが「私たちには金や銀はない」しかし、主イエスに対する信仰がありました。神はその「有る」か「無い」か分からない、小さな信仰を通して恵み豊かに働いて下さるのです。

 3、御名によってとは

 「名は体を表わす」と言われますが、聖書の世界では、「名」はその実体、本体を意味します。つまり「イエスの名」とは、天に上げられたイエス様が、聖霊によって、弟子たちを通して、今も生きて働いておられると言う事なのです。足の不自由な人が立ち上がったのは、ペトロに奇跡を起こす特別な才能が合ったわけではありません。「この人が良くなって、立っているのは、イエス・キリストの名によるものです」(4章10節)。「イエスの名」がそれを起こしたのです。