2007年5月20日

「豊かに成長する」エフェソの信徒への手紙4:1〜16

 私たちが今ここに集っているのは、「神によって招かれた」からです。4:1しかし、私たちが神様から招きを受けるような功績は何一つありません。ただ、神様の一方的な憐れみと恵みによって私たちは招かれたのです。そこで、「その招きにふさわしく歩む」にはどうするのかを下記の3点から見てみましょう。

1、招きにふさわしい歩みとは。教会はイエス・キリストを頭とする体であると言われます。この教会を立ち上げ成立させるのは、建物ではなく、ここに集められた私たち一人一人なのです。性格も、考えも、生い立ちも違う私たちが、主体を自分に向けるのではなく、教会の頭であるキリストに向け、互いにその違いを認め、互いに尊重し、互いに受け入れていく事を神様は望まれています。

2、招きにふさわしい成長をする。私たちはお腹がすくと食事をします。食べ物を口に入れて胃で消化をし、体全体に栄養が行き届くようになっています。胃だけが食事を独り占めすることは出来ません。もし、そのような事があれば体全体が死に、独り占めした胃も死んでしまいます。同じように集められた私たちも教会で心の食事をします。その食事は命のパンである御言葉です。私たちはいつも御言葉によって養われ成長して行きます。しかし、御言葉を心の中に閉じ込め、それを独り占めするなら、神が望まれる成長にはなりません。この御言葉が私たちを通して語られるとき、本当の栄養となって成長するのです。

3、招きにふさわしく仕えていく。教会の頭であるキリストは、私たちに仕えることを望んでおられます。神は私たちを招き霊による一致で教会を立ち上げ、そこでふさわしい歩みをさせ、私たちの内なる霊を成長させます。そして教会の中で互いに仕えさせ、教会から社会へと仕えさせます。何故ならば、教会の頭であるキリストは「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの身代金として自分の命を献げるために来たのである」マルコ10:45

 私たちが、どんなにつまらない人間であっても、また、罪を犯してきた人間であっても、神様は、そんな私たちを愛して期待して招かれました。私たちは正直に自分の弱さを認め、足りないところがある事を認め、罪人である事を認め、その中で互いに赦し合い愛し合って行くのです。感謝。