2007年5月13日

「迷信に惑わされないこと」ルカ福音書13:1〜5

 「ちょうどそのとき、何人かの人々が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(13:1−3)

 本日の御言葉の中には「災難と罪」そして「悔い改め」の二つの事が記されています。いろいろな災難に遭うと、なぜ、どうして、何が原因なのかと思います。特に、突然襲う災難には原因すら分かりません。その悲しみと恐怖の中でたどり着くところは、自分の罪ゆえに災難が起きる。「弟子たちがイエスに尋ねた。ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも両親ですか」(ヨハネ9:1)とあるように、病気、事故、事件などの災難は罪の結果だと思っていたのです。

 ヨブも突然の不幸に遭ったとき、私は何の罪も犯していないのに、何故、こんな目に遭わなければならないのかと言って、嘆き、苦しみました。友人たちが励ましに来ましたが、しかし、励ますどころか、ヨブの罪をさらに責めました。結果、ヨブは二重の苦しみを負ったのです。私たちの周りでも世でも、先祖の祟りだと脅かしたり、罰(バチ)が当たった。家の方角が悪い、壷を購入すれば治ると言って、災難にあった人をさらに苦しめるのです。イエス様は、はっきりと災難と罪を否定していますので、決して迷信に惑わされてはなりません。

 人々がそのような迷信に惑わされない為にも、また滅びの人生を歩まない為にも、しっかりと悔い改めをしなくてはなりません。悔い改めとは、世に向かっている心をしっかりと神様に向けることです。夜、寝る前に神様に心を向け、一日を振り返って見て下さい。自分の愚かさや、傲慢さが見えてきます。それは神様に心を向けることによって見えた幸いのしるしです。神は悔い改める私たちの心を豊かに祝福し、明日に向けて成長させて下さるのです。感謝。