2007年5月6日

「教会を建て上げるということU」 エフェソ書1:15〜23

 昨日は子どもの日でしたが、世界的には6月第二日曜日を「子どもの日」とし、教会では「花の日」としてお祝いしています。近代になり、ようやく子どもの権利と存在がコミュニティの中で認められるようになってきました。それは決して神さまがイエスさまを通して全ての人々を救い、神の子としてくださろうとした福音の計画と無関係ではありません。神のみこころは私たちを愛し、聖なる者・汚れのない者とし、神の子とすることです。この世の最も小さなものが神の家族へと招かれているのです。その家族の基となるものは教会でであり、その土台はキリストです。そして、イエスさまは信じる者たちを兄弟と呼ぶことを恥とはなさいませんでした(ヘブル2:11)。

 教会を建て上げるということは、行いによってではなく、神の恵みの信仰によって救われるという原則の上に始めることです。世の中の矛盾や間違い、不公平や争いをさまざまな運動や原理によって変えていくことは大切なことです。立派な会堂を建てること、良いプログラムや活動を行っていくことは地域社会を納得させ、教会を受け入ていただく上で重要なことです。宗教や思想の違いを乗り越えて一致して理想社会を造り上げていくことも誰もが望んでいることです。教会はそのような意味で、現代社会のニーズに応えていく責任を持ち、誰もが持っている苦しみや悲しみを分かち合っていく必要があると思います。

 しかし、気をつけなければならないのは、平和と平等の世界が十字架に架かられたキリストと無関係に造り上げられていくことです。智恵と啓示の霊とは聖霊で、私たちの行いとは無関係に与えられる神の愛と恵みとを知らせる霊です。パウロはかたくなに十字架につけられたキリストを宣ベ伝えました。なぜならキリストこそが神と人とをその犠牲によってつないでくださった方であり、キリスト以外のものによってつながれた世界はそれがどれほど素晴らしくとも救にある姿ではないからです。イエスは教会に問われます。「それでは、あたがたは私を何者だと言うのか。」その答えが教会の基です。人をその答に導くことに教会が地域に仕えていく大きな意味と目的があります。