2007年4月29日

「教会を建てあげるということ」 マタイ21:33〜46

 教会とは何でしょう。立派な会堂、大きな会堂を造ればそれで教会といえるのでしょうか。「教会を建てあげるということ」を2つの視点で考えてみたいと思います。

 @マタイ21章33〜46節には、ぶどう園と農夫のたとえが記されています。ある主人から農夫がぶどう園を借りて、ぶどうを栽培します。その収穫の一部を地代として受取ろうと主人はしもべをぶどう園に送りますが、農夫はその収穫の一部を納めることを惜しく思い、しもべを次々と殺します。最後に主人はその一人息子を送りますが、ぶどう園まで自分のものにしようと考えた農夫は、その跡取りの息子までついには殺してしまった、というたとえです。このぶどう園は主人のものであり、農夫たちは借りていたに過ぎないのです。私たちの世界もまた人生も神さまのものであり、神さまから借りているのです。ところが、いつの間にかすべてが自分のものだとばかりに、傲慢にこの世を生きていないでしょうか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』(42節)とあります。殺され、捨てられたその一人息子である主イエスを石にたとえ、その石がすべての人を救う救い主となったのです。主イエスは、十字架にかかり、死なれましたが、死に勝利され復活されたのです。この十字架と復活の事実を告白し宣べ伝えていくことが、イエス・キリストの体なる教会を建てあげていくことになるのです。

 A当時の建物は石を積み上げて造られています。家造りらが、こんな石は、使い物にならないといって捨てる時、こんな石は役に立たないといって捨てるのです。つまり、私たちは役に立つものだけを用いようとします。役に立つか否かの基準は、自分にとってどうかということではないでしょうか。自分達の都合の悪いものは切り捨てていくということです。しかし神さまは、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)とおっしゃいました。

 神さまに愛され、十字架と復活のイエスさまに連なる私たちが、一人ひとり神さまの目には尊い存在であることを感謝し、その隣人と共に歩む、そこに教会が建てられていくのです。