2007年4月1日

「無実の神」ルカによる福音書 23:32〜43

 過ぎ越しの祭りを前にしたエルサレムはイエスさまを歓喜の声をもって迎え入れました。しかし、妬みと怒りに満たされた祭司長、律法学者たちはイエスを訴え人々を煽動しイエスを罪に定めました。弟子たちも主イエスを裏切り、離れていきました。無実の罪に問われたイエスさまのために冤罪の訴えを起こす人もなく、イエスさまは人からも父なる神からも捨てられたのです。

 ひるがえって、今を生きる私たちは神を訴えることなどしていないと言い切れるでしょうか?神も仏も無いという出来事の中で、それでも神は正しい方であると言えるでしょうか?自然災害や不慮の事故、生まれついて負った障害、思いもよらぬ病気や不幸といった出来事の只中で神は無実であると言い切れる人はどれほどいるでしょうか?世の中の不公平や差別を見て神は平等で公平な方、弱い小さな者の味方だと弁明し、情け深い方だと断言できる人はいるでしょうか?その状況や体験が過酷であればある程神の側に立って証言できる人は少ないと思います。総督ピラトも領主ヘロデもイエスに死刑に価する罪を見出すことはできませんでした。

 しかし、彼らは神ではなく祭司長、議員たち、民衆を恐れ真実を曲げ間違った判決を下し、公然とイエスの冤罪を否定したのです。それは民衆と同じくイエスを見捨てたのと同じことであり、今を生きる私たちにとって神の無実を疑うことはイエスを見捨てたことと同じだと思うのです。

 使徒パウロは言いました。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(2コリ5:21)」主イエスは潔白を主張なさいませんでした。それどころかイザヤが預言した通り、「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。」のです。イエスの口を閉ざしたのはイエスの私たちへの愛であり、ひとり子イエスを見捨てたのも神の私たちへの愛でした。

 「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」とのイエスさまの言葉は、神の深い愛を知らずに神を訴える私たちの罪を執り成す究極の祈りだったのです。そして、イエスの冤罪を公に訴えたのは同じく十字架にかかった犯罪人の一人だけだったのです。イエスを無実と公に証言する者にイエスは約束されます。「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる。」