2007年3月18日

「人、家族、社会」 ヨハネによる福音書12:20〜26

 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 イエスさまは受難の一週間前、ろばの子に乗ってエルサレムに入られ、人々はイエスをイスラエルの王として、なつめやし(しゅろ)の枝を持って出迎えました。しかし、弟子達はそれらの意味が分かりませんでした。イエスの視線はいつも地上ではなく聖書の言に向けられていたからです。イエスは受難によって救いの業が成し遂げられる前に、勝利の凱旋パレードを行われたのです。凱旋将軍がろばの子に乗って入場するなどこの世的には滑稽なことです。しかし、聖書の言が実現されることは、目に見えない神のご計画と約束とが地上で成功を収めることよりもはるかに勝っていることを教えます。

 「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」とソロモンは教えます。今、私たちはありあまるほどのものに囲まれた世界で生きています。しかし、私たちはなぜか不平や不満、不安に満たされ将来に明確な希望を持つことができません。そのような地上に住む私たちに与えられた希望は「一粒の麦」キリストです。その麦には三つの特徴があります。
@地上に落ちた:パウロはエフェソ書4章でイエスは、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。と言いました。神ご自身が人の孤独や不安、寂しさや苦しみ、人間関係の中に降りて来られたのです。

A死んだ:新しい命が死によってもたらされる原理を示された(12:25)。互いに愛し合うことには、自らに死ぬことを求められます。ヨハネは「イエスは、わたしたいのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたいは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)と言います。

B多くの実を結ぶ:私たちの罪の購いのために死なれたイエスに仕え従うならば、地上の命を越えた永遠の命を得ることが出来ます。

 主を畏れることは、一人子イエスを賜った神の深い愛を畏れることです。畏れを知ることこそ、今生きる私たちの社会に必要なことではないでしょうか?私たちの目に見える世界は一粒の麦の死によって支えられています。