2007年3月4日

「教会の力の素」フィリピの信徒への手紙3:7〜11 

 完全な人などこの世にはいません。何時、どんな時でも、どのような状況の中でも平然としておられる人はいないと思います。クリスチャンとて信仰を持っていても同じです。しかし、そこにはちょっとした違いがあります。暗闇の中でこそ光は輝きを増すと言いますが、パウロが牢獄の中、しかも何時処刑されてもおかしくない暗闇のような状況で喜びという光について語ったこの手紙には説得力があります。イエス・キリストにある救いの福音は説明することではなく、確信に立って説得することです。そこでパウロは自分の人生を変えた力がイエスさまの十字架の死だけでなく、復活にその力があることを証言しました。本来教会は「いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」2:15もので、この世と歩調を合わせ落ち込んでいく存在ではありません。信仰とは罪に死に、新しい命に生まれ変わって生きることです。

 教会とはイエスの復活の力を知る場所であり、その苦難にあずかって共に人生を変えていく場所でもあります。イエスの復活の力を知ることとは、過去を清算する力です。神を知らず認めずにいた自分の罪がもたらした過去の失敗や傷、挫折感、罪悪感からイエス・キリストは私たちを救って下さいました。イエスさまは十字架上で「すべてが終った」と宣言されました。全ての罪の購いは完了したのです。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」とエレミヤを通して預言された通りです。そして、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」ローマ8:1

 なぜ神を信じる人でさえも苦難に見舞われるのか?パウロは、本当の希望を生むため、と言いました(ローマ5:3)。暗闇を経験しなければ光の力を身につけることはできません。苦難は忍耐を生むとパウロは言います。「ならぬ堪忍、するが堪忍」と言う言葉がありますが、パウロの言う忍耐とは、神が与える苦難に添えて与えられているものという意味です。その忍耐力は、自分の弱さや欠点を認め受け入れる訓練に私たちを導き、過去の経験を主に任せ忘れさせます。そして、忍耐は練達(練られた品性:実証された信頼性)を生み、そこで初めて欺かれずしぼむことのない希望を受けることができるのです。ヤコブは希望を生む忍耐について言いました。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。・・心を固く保ちなさい」(5:7) 教会はどのような場所、時にあっても人生の大逆転をもたらす復活の主の力を信じる交わりでなければなりません。