2007年2月25日

「祈りのオアシス」 フィリピ書4:4〜7

 私たちは今、新しい教会のビジョンを皆が共有し、一人一人の言葉で表現しそのビジョンに生きることを願っています。現在提案しているビジョンの最初の目標は「地域のオアシス」と教会が成っていくことです。場所として、建物として、分かち合える活動の内容として教会が地域の憩いの場となることは皆が願ってやまないことです。地域の人々に開かれた場となるために色々なアイデアがあります。しかし、本当の安らぎの場となることは世の中の基準とは少し違っていると思えます。人が教会に来るだけで安らぎを感じ、幸せな気分になって帰っていける。それは大切なことです。色々な活動やプログラムに招いて良い体験をしていただくことも大切なことです。しかし、そのビジョンの根底にある願いは、神さまとの出逢いの場に教会が成っていくことです。獄中から書かれたこの手紙はパウロの喜びと平安とが現実の状況やこの世の幸せに根ざしているのではなく、神との深い信頼関係にあることを語っています。

 キリスト教信仰には際立った特徴があると思います。それは、主イエスの名によって祈る祈りです。普通、祈りと言えば願いを叶えるものであったり、自分を高めるための祈りであったりします。しかし、キリスト者の祈りは自分のことではなく他者のためであったり、自分の願いのための祈りで始めたとしても最後には主のみ旨が成りますようにと祈ります。何故でしょうか?それは、人が本当の平安を得るためにはそれを与えることのできる方を知り、そのご計画を知る必要があるからです。人は苦しみや悲しみ、挫折や試練を通してしか神を学ぶことができないのです。神は食べ物を与える前に空腹を与え、水を与える前に渇きをお与えになります。詩篇51に「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」とあります。

 「主において常に喜びなさい」「感謝を込めて祈りと願いをささげ求めているものを神に打ち明けなさい」とのパウロの勧めは、神に対して言葉を重ねなさいと言っているのではなく、内なるうめき、切なる願いと嘆きを捧げることです。教会が地域の憩いの場となるならばそれは、人々の心の奥にあるものと神との出逢いの場となること、「祈りの家」となることです。テサロニケの教会へパウロは三つの宿題を出しました。「いつも喜ぶこと」「絶えず祈ること」「どんなことにも感謝すること」それは不可能なことではなく主イエスにあって赦されているということです。砂漠のように思える試練の中にあって、祈りをもって命の水が沸き出るオアシスとなる教会となって参りたいと思います。