2007年1月21日

「事の始まり」 ヨハネ15:15〜19

 重度の身体障害があるお子さんを持ったご両親がおっしゃっていました。「何よりも心配で不安なのは、自分達にもしものことがあったら子供がどうなるのかということです。」と。自分のことより子供のことが心配で仕方がないのが親です。そのために色々心を砕いて後々の事を出来る限り準備したいと思うのが人情です。ヨハネによる福音書はどちらかと言うとイエスの歴史よりもイエスの言葉と行動に隠された秘密を明らかにすることに重点が置かれています。特に13章から17章までの長い部分をイエスの言葉として、残される弟子達のために割いています。そこには「新しい戒め」「聖霊の励まし」「平和の付与」「友としての弟子達への使命」「喜び」そして、彼らのための祈りが満たされています。「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。(16:4)」とイエスさまは残される弟子達に対して言われました。それは、残された弟子達の伝道生活の上に待ち受けている絶えざる困難や試練を予見した言葉でもあります。

 しかし、救いの始まりは神にあります。ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハ4:10)」と言い、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(フィリピ2:13)」と福音宣教に向う私たちを先導するのも神であると言います。また、イエスは信じるものたちを「友」と呼び直されました。イエスと同じ目的のために呼び出された喜びを分かち合う仲間という意味です。

 そして、事を支え完成へと導かれるのも神です。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(イザヤ46:4)」

 私たちの教会は今、ビジョンを分かち合おうとしています。それは、私たちの教会が、
@地域の憩いの場(オアシス)となること。
A地域に神の愛を伝える場(灯台)となること。
B地域と共に育ち合う場(畑・庭)となること。
 その為には様々な具体的で夢のある活動のために一人一人が主にあって奉仕の責任を進んで負うことです。パウロは言いました。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(ガラテヤ5:6)」事を始めてくださった神に信頼し、イエスが私たちを愛し十字架に向かわれたように互いに愛し合うことを求めて参りたいものです。