2007年1月7日

「光あれ」 創世記1:1〜5

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」新しい一年が始まりました。いつの時代でも新しい年に向けての私たちの願いは希望と平和の年となることです。しかし、毎年のように私たちの願いが無残にも砕かれてしまうようなことが年頭から起ります。昨年一年に願いを込めて充てられた文字は「命」でした。しかし、何と多くの命が意味もなく損なわれていったことでしょう。今年こそはと願う私たちに現実は厳しいものです。

 創世記における神の創造の業は、彫刻家が形無い大理石の塊から素晴らしい作品を切り出すかのように始められました。それは私たちに、形造られる世界への希望を抱かせると同時に、混沌とした世界に秩序を与える神の力を予感させます。エレミヤによれば、バビロニアにより破壊されたイスラエルは天地が創造された時以上に混沌とし廃墟のようであったと言います。日本は戦後廃墟のような所から奇跡的な復興を遂げたと言われています。しかし今、私たちの社会のみならず、世界が直面している問題は人口の爆発、地球温暖化、環境破壊、テロや核の脅威、民族の対立などに留まらず、人の心の奥底にある問題も深刻化し、混乱へと向っているように思えます。

 しかし、神は言葉によって光を創造されました。ヨハネはイエスさまについて「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と表現しました。神は、私たちが直面するあらゆる困難な問題、どうすることもできない問題に覆われてしまわれる方ではありません。問題が大きければ大きい程、私たちは主の前に進み出る必要があります。パウロは言います。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント5:17)私たちは、主にあるなら日々新しくされ、光を放つことができるのです。新しい一年、私たちには様々な試練が待ち受けているかも知れません。しかし、神はどのような闇のように思える出来事にも光を生み出してくださる方であることを忘れず、私たちに与えられた日々を恵みを数える時としていきたいと願うものです。