2006年12月10日

「赦されて私は生く」 マタイ3:1〜12

 洗礼者ヨハネの誕生は今から約2800年前にイザヤによって予言されていました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする、主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」40:3 また「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」マラキ3:2 BC500そして予言通りヨハネが現れて叫びました「悔い改めよ、天の国は近づいた」

 更に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」8「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」10 ヨハネはこの神の裁きから逃れるために人々に悔い改めを迫りました。

 これに対してイエス様は火に投げ込まれるはずの私たちに代わって、自らを火の中に投げ込まれました。イエス様が来られたのは十字架の愛によって私たちの罪の救いと赦しためにこの世に来られたのです。

 人は「お前たちは罪人だ、切り倒すぞ、火に投げ込むぞ」と迫られても、恐怖心からは本当の悔い改めは出来ません。しかし、イエス様の十字架が実は私たちの罪の身代わりの犠牲であったことを知るとき、私たちの心に変化が起こります。自分の罪深さを深く反省し、また赦された喜びを感じるのです。

 荒野のような慌ただしい社会に身を置く私たちですが、まもなくクリスマスをお迎えします。イエス様が何ゆえこの世に来られたのか、私たちは今一度省みなければなりません。

 そして「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」と言われているように、アドベント(待降節)はイエス様をお迎えする、また待ち望む準備期間なのです。

 「神はその独りをお与えになったほどを愛された」ヨハネ3:16「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、世が救われるためである」3:17とあるように、私たちは神の愛によって赦されて歩めることに感謝しましょう。