2006年12月3日

「たとえそうだとしても」 ヨナ書3:1〜10

北王国ヤロブアム二世の頃活躍したと思われる預言者アミタイの子、ヨナに神の言葉が臨み、彼の人生に思いもよらない出来事が起きました。

 今日、私たちの心の中にもヨナはいます。時として神の私たちの日常生活への介入を感じる時、私たちは信仰の危機に立たされます。ヨナの神の召しへの言い訳には神への恐れと不満がありました。

@世界に目を向けていくことへの恐れ

多くの人々は自分のことや自分の人生についてしか考えない傾向があります。しかし、神は私たちを限られた場所や出来事のために創造されたのではありません。世界に目を向けることで私たちの人生の意味は深く大きくなります。

A敵を愛することへの恐れ

ニネベは強大なアッシリアという敵国の大きな町でした。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われたイエスさまの言葉は、赦しが国を変えることを証明します。「目には目を、歯には歯を」という解決法は結局世界中の人間の目が見えなくなること、物を食べられなくなること、すなわちそれによって滅びが必ず来ることをイエスさまは教えて下さっています。

B神への不満

「放蕩息子」のたとえで、放蕩の限りを尽くして帰って来た弟を兄は許すことができませんでした。行方不明で生き死にも分からなかった弟の帰還を父と共に喜ぶことはできなかったのです。それは、真面目な兄が、父親は自分より不道徳でどうしようもない弟の方を愛していると思い込んだからです。

 神の恵みはこの世の目で見れば不公平に見え、神への不信は私たちを信仰の危機に立たせます。しかし、神はどのような人にも救いのチャンスを与えておられます。たとえどんな言い訳があろうとも、信じる者は福音を分かち合わなければ福音の恵みにあずかり喜びを得ることはできないのです。クリスマスは私たちが魂の救いと喜びを知るチャンスの時です。