2006年11月26日

「神の思い」 イザヤ書55:8〜11

 イスラエルの民の神に対する背信は思いもよらぬ他国からの支配と捕囚という艱難を彼らにもたらしました。それは彼らにとって大木をその根元から切り倒されるような出来事で、とても再生の道は考えられないほどのものでした。しかし、神はイザヤを通して絶望の中で神にしかできない救いのご計画を明らかにされたのです。42章から始まる主の僕の到来は民の贖いと解放とを告げ知らせるものでした。それは彼らには思いもよらぬ他国からの支配からの解放に留まらず、彼らの罪からの解放(43:25)でした。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。(11:1-2)」との主の言葉は正に現実味を帯びて来たのです。神は遠い昔、ダビデを通して約束してくださったことを忘れてはおられませんでした。アブラハムとの契約を反故にされることもありませんでした。しかし、その方法と救い主の姿は彼らが想像さえすることのできぬものでした。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」との主の言葉は今生きる私たちへの希望の言葉です。私たちの教会は今、土地の取得や建物(会堂)について思いを巡らせ、物件やその用い方に心を寄せています。目に見えるもの、働き、その業に心を向けることも大切なこと、忘れてはならないことです。しかし、それよりも大切なことがあります。それは、私たちの業を捨て、主の元に集い主のことばに聞き従う思いを新たにし、主にあって一致することです。神が始め、導かれる事にぬかりはありません。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。(55:11)」と主は言われます。

 どのような状況にあっても主に寄り頼む人には「神の思い」が残されています。それは、私たちの方法や考えを遥かにしのぎ、信じる者に新たな力を与えてくれます。パウロは言います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)」神の思いを仰ぎ見る力は神に信頼することから与えられていきます。