2006年11月19日

「良き棟梁」 詩篇127:1,2

 詩篇120篇から134篇は「宮もうでの歌」と呼ばれています。イスラエルの民がエルサレムに上り礼拝する巡礼にちなんだ歌だと言われます。私が子どもの頃、田舎の村で一年に数回、人々が近所の神社にもうでることがありました。祭りと初詣の時です。普段は人通りも少ない場所に大勢の人が家族のように集まることに私は不思議さと嬉しさとを感じました。真実の神を知った今、私は子どもの頃以上に神の家族が集い礼拝することを嬉しく思っています。なぜなら礼拝は、共同体の生活と平和を守る神を教えてくれるからです。「主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。・・」との歌は、本当の神によらなければ家族の結束や安全や食料調達も含めた共同体の平和はないことを告白します。信仰心と信仰とは違います。信仰は神が主体であり、与えられるものです。今はあまり見かけない水車の姿は実生活を通して信仰が働くことを教えます。水の流れをこの世の生活と見立てれば水車が力を得るためにはその一部を水に浸ける必要があります。全体を浸けると水車は回りません。私達の信仰は実生活で生かされてこそ水車のような力を発揮します。

 建物のみならず共同体を建て上げるには熟練した棟梁(大工の頭)が必要です。聖書はイエスを「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」共同体の土台、基準であると言っています。宮大工最後の棟梁と言われた西岡常一さんは1300年を超える建築物、法隆寺を守り続けた方です。宮大工の手による建物はさまざまな知恵と工夫が凝らされ、棟梁は木を熟知し、用材としての木に新しい命を与えます。1000年耐え得る木は栄養状態の悪い土地に自生したものだそうです。「木組みは寸法で組まず、癖で組め。」と西岡さんは言います。十分乾燥させ時間をかけて木の特性を見極めて建築に臨み、先を読んで組み立てるのです。教会の建物の建築はもとより、主にある共同体を建て上げていくために第一に必要なことは、主を中心に置くことです。そして、限りある命を使命という永遠のことのために用いていくことです。クリスチャンの生活が神に根ざしていれば、私たちは神にしかできない業を見ることができます。