2006年11月12日

「神の備え」 ヨハネ21:1−14

 エルサレムにいた弟子たちがガリラヤに戻ってきました。弟子たちにとっては懐かしい場所、3年前までペテロたちは毎日このガリラヤ湖で漁師をし生活をしていました。その日も網を打ちながら漁をしているとイエス様が声をかけられました。「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」ペテロとアンデレの二人はすぐに網を捨てて従った。続いてヤコブとヨハネが舟の中で網の手入れをしていた時、イエス様が彼らをお呼びになると、一緒に働いていたお父さんや雇い人たちを残しイエス様の後に従った。

 この人間の常識を超えた行動、何かを期待して従ったと言うよりも、霊に動かされてイエス様に従ったのでしょう。その後はイエス様と寝食をともにし、御言葉を聞き、奇跡を目撃し、また体験もした。ある時には叱られながらも、喜びや悲しみも共に分かち合ってきた。そして、イエス様の事を私の救い主であると告白するに至った。弟子たちにとって救い主と共にいる人生は希望に満ちた日々でした。その弟子の中心的存在であったペテロが突然「わたしは漁に行く」と言い出した、すると他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言って舟に乗りガリラヤ湖に漁に出た。何故でしょうか?

 それは、救い主であるはずのイエス様が十字架につけられ殺されてしまった。神の子が人間に殺された。イスラエルがエジプトで奴隷だった時、神が救い出してくださった。あの海を真っ二つに割ったあの力強い神、その神がいとも簡単に殺されてしまった。弟子たち一人一人の希望に満ちた人生が絶望に変わってしまった。イエス様が一緒に居て下さった時はどんな状況の中にあっても最後は平安だった。全てを捨てて従ったのに、希望があっというまに消えうせてしまい、信じていたのに裏切られた。この失望と絶望の中で、弟子たちは昔の生活に戻ろうとしたのです。ペテロは「私は漁に行く」といって過去に戻って行ったのです。しかし、漁に関しては豊かな経験と知識を持っている彼らですが、夜通し働いたが何も獲れませんでした。

 そんな彼らの行き詰まりやあせり、不安、これからどうしたら良いのか、悩む彼らをイエス様はじっと見ておられました。イエス様がご覧になるのは、教会に集っている事柄だけではありません。私たちの日常生活をご覧になっているのです。その中で私たちの失敗や行き詰まり、絶望的な状況もしっかりと見ておられる。私たちがイエス様がそばにおられるという事に気づかなくても、イエスから離れているように思えても、イエスは私たちのそばにいて下さり、私たちの苦しみも悩みも見ていて下さり、そして理解して下さるのです。

 戸惑う弟子たちにイエス様は「舟の右のほうへ網を降ろしてみなさいと言われた」聖書で右とは、神の側(神の領域)を表わし、左は人の側(世の領域)を指します。イエス様は人間の方法、知恵や力に頼るのではなく、神の知恵、力に依り頼みなさい、神の恵みに自身を委ねなさいと仰せられているのです。弟子たちは神の恵みや導きを考えないで、ただ魚を取りたい、その一心で夜通し網を打ったが結局は空しい結果となってしまった。私たちも神の導きや恵みを無視したところで、仕事や人間関係を一生懸命築いても最後は空しい思いになってしまうのです。

 しかし、神の力と神の御心に従ったら、即ち、「舟の右のほうに網を降ろしてみなさい」というイエス様の御言葉に従って網を降ろしたら、網一杯にたくさん魚が獲れたのであります。私たちの人生も同じです。神に聞き従って生きるときこそ、私たちの人生を確かなものへと変え、豊かな実を結ばせるのです。今、不安の中にある人、やり切れない思いを抱いている人、悲しみの中にある人、私たちは勇気を持ちたいと思います。イエス様は私たちが知らないところで、私たちのために炭火を起こし、魚を焼き、パンも備えてくださっているのです。つまり私たちにとって必要なものは、イエス様によっていつも備えられている。そのことをしっかりと覚え、そして、常に神を第一として従って行きましょう。。