2006年11月5日

「点と線」コリント人への手紙2 5:16〜21

 召天者を記念し、守る礼拝の中で私は思うことがあります。第一に、人の一生は何とはかないものかということです。ダビデは言いました。「教えてください、主よ、わたしの行く末を。わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように。(詩篇35章)」そして彼は人の生涯は空しいとさえ言いました。人生とは歴史の時間の流れから言えば正に「点」のようなものです。また、人ひとりの存在さえも膨大な命の中では「点」に過ぎません。点自体に何の意味も価値も無く、点の周りで起るさまざまな出来事にも意味は無いのです。しかし、ダビデが次の瞬間、信頼する者を救って下さる神に感謝した(40章)ように、人の一生は神によって価値あるものに変えられます。

 召天者を記念し、守る礼拝の中で第二に私が思うことは、「福音」により「点」は意味あるものに変えられ、福音という「線」によりつなげられ関連付けられるということです。パウロは本日の聖書の箇所に先立って救いを信じる者たちと確認を取ります。「わたしたちの地上の住かである幕屋が滅びても神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。5:1」彼は、主イエスにある十字架の復活を見ているのです。はかなく見える私たちの命(人生)が、線(福音:恵みによる救い)によって永遠のものとなるのです。パウロは続けます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」新しい創造とは「関係」の創造です。キリストの愛により結ばれた、神との新しい関係とその広がりです。それは、人の存在を保証するばかりでなく、出来事や他者との関係、境遇や状況との関係、過去との関係さえも新しくします。そして、新しい人生の目的を創造します。

 召天者を記念し、守る礼拝の中で第三に私が思うことは、主にある人は人生の使命を知っているということです。それは、和解の務めです。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」主にあって召された人々は、この世にあって和解の使者として仕え生きて証しをして下さいました。「点」に過ぎず、はかない私たちの命をつなぐのは主イエスにある救いの福音です。主にある多くの人々に雲のように囲まれた私たちは、これからも信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ(ヘブル12:2)ながら再会の希望を持って歩んで参ります。