2006年10月29日

「見えないところで」 マタイによる福音書6:1〜8

 私たちは、目に見えることがらを重んじ、それについてのみ判断をしたり、評価をしてしまいがちです。しかし、世の中には、さまざまな「目には見えていない」事柄が存在し、実はそっちのほうが大きくて、大切なものであるということに、時折気付かされます。

 アメリカのメジャーリーグで活躍する日本人野球選手のイチローさんなども、テレビで見ているだけでは、いとも簡単にヒットを打っているように見えて、ただ一言「彼は天才だから」で済まされてしまいますが、実は、試合前に誰よりも早く球場に入って練習を始めたりと、見えないところでとても大きな努力をし、日々プレッシャーと戦っていることを知らされたりします。

 また、今年5周年になる、アメリカの同時多発テロの報道においてもそうです。飛行機が貿易センタービルに飛び込んだり、ビルが崩壊したりという衝撃的な映像を見せられ、犠牲者が約3千人と聞かされると、改めてそれはとんでもないことだと思わされるのですが、その後に、その事件が引き金となって起きたイラク戦争におけるイラク市民の犠牲者数が約5万人もいるのだということを知らされると、背筋が冷たくなります。報道が正確に行き届かないところで、見えないところで起こっている事のほうが、実は何倍も大きかったりするのです。

 イエス様は、山上で説教をされた時に、このようなことを言いました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないようにしなさい」また「祈るときは、自分の部屋に入って戸を閉めて祈りなさい」とも言われました。

 人の前で、人に見せようと行われることよりも、隠れたところで、人の見えないところで行われる事の方が、実は大切で、真実に近いのだとイエス様は仰られるのです。それはなぜか。見えないところで行われることは、人ではなく、神様が見てくださっているからだと、イエス様は言われるのです。

 私たちは、人に対して何かできないかと考え、実際に手を貸してあげられることもあれば、具体的にはそれができずに終わってしまうこともあります。しかし、そんな時でも、私たちは陰で、見えないところで、その人のことを祈ることができます。行動としては、ただ祈るだけかもしれませんが、実はそれが何よりも大きく、大切なことだと気付かされます。その祈りはどんなに短くても、どんなに小さな声でもいいのです。

 イエス様は言います。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と。だから、くどくどと祈らなくてもいい。そう仰るのです。

 真剣に、真実を祈ろうと心を向けること。それが大切で、その祈りはどんなに短くても、あとはすべて神様が必要なものを知ってくださっているのです。

 見えるものよりも、もっと大きく、もっと大切なものが見えないところに隠されている。実は、私たち人間にとっては、神様自体がそういう存在なのです。神様というのは、その姿を誰も見たことがありません。ヨハネによる福音書の一章十八節にこんなみことばがあります。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」

 まったく見えない存在だった神様が、イエス様という姿で、一度だけ降りてきて、見える者となってくださったのです。そして、私たちの罪のために十字架に架かって、すべてをあがなってくださいました。イエス様は甦られ、そしてまた再び天へと昇られ、私たちの見えないところへ行かれました。神様が作られた、永遠ともいえる時間の流れの中で見れば、それは一瞬の出来事だったといえるかもしれません。しかし、その一瞬で、神様はまったく見えないものではなく、姿は見えなくてもその大きさ、大切さを、私たちが知ることができるものとなってくださったのです。

 見えないところで祈っていることは無駄にはなりません。見えないものにこそ目を向けてくれる神様が、その祈りを聞いて下さっているからです。お互いに、見えないところで祈り合いながら、進んでいきたいと思います。