2006年10月22日

「知らないうちに」 ヨハネによる福音書2:1〜11

 第四福音書と呼ばれるヨハネによる福音は他三つの福音書と際立った違いがあります。それは、イエスがキリスト、救い主であり神の子であることを証言することに重きが置かれていることです。それを強調する意図もあったのか、出来事の順序や表現が他の福音書の記述とは大きく異なっています。また、特徴的なイエスさまのたとえ話しが省略され、代わりにニコデモやサマリアの女などとの個人的な交流を通してイエスご自身の身分を明らかにしています。そればかりでなく、奇跡物語も他の福音書には見られない奇跡が取り上げられ、しかもその奇跡(べトザタの足の不自由な人、生まれつきの盲人、ラザロの死よりの生き返りなど)は「しるし」と呼ばれ、イエスの弾圧へと繋がっていきます。

 「初めに言があった」と始まるヨハネ福音書は、イエス・キリストの神性を示し、彼によって新しい世界の創造が開始される予感を与えます。洗礼者ヨハネによりバプテスマを受けた後、イエスさまは弟子たちと出逢い、その宣教を開始されます。その初めとしてのイエスの神性は結婚式で現されました。カナの町で行なわれた結婚式にイエス一行も招かれたのでしょう。数日に渡って行なわれる祝いの席でぶどう酒がなくなってしまいました。イエスの母、マリアはその家の世話役ではなくイエスさまに相談しました。それはただ単なる祝いの酒が無くなったことへの対応を求めたものではありませんでした。この世の与えるお祝の品々や賞賛の言葉は必ず尽きていくものです。主イエスの関心は天来の尽きることのない祝福を人々に与えること、イエスご自身が祝福の酒となることでした。時満ちて伝道を開始されたイエスさまは、日常の営みの中でも最も神の祝福を象徴する結婚式という場を、恵みの伝道の出発点とされました。神の国を伝え、福音を宣教していくことがどれほど困難を伴い、苦しみに満ちたものになるかをイエスさまは予期しておられたに違いありません。しかし、イエスさまは水をぶどう酒に変えることによって宣教は勝利に終わることを暗示されたのだと思います。召し使いたちが主イエスに言われた通り、水がめにいっぱい入れた時、主は水を最良のぶどう酒に変えられました。味気ない水が良質のぶどう酒に変わるという逆転の発想は福音に見られるものです。

 主イエスがシモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われると彼は答えました。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」ルカ5章。主イエスに言われた通りにしたところおびただしい魚が獲れたことは言うまでもありません。また、生まれつきの盲人の目にどろを塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われると彼は行って洗い、そして見えるようになりました。結婚式の世話役はぶどう酒がどこから来たのか知らなかったので花婿に言いました。「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」神は小手先の幸せで私たちを誘い、そこそこの人生で終わらせることを望んではおられません。どんな苦しい人生であったとしても、私たちが主イエスの言葉に従って生きる中に主イエス・キリストの十字架にある救いと勝利のぶどう酒が用意されています。主に従うとき、知らないうちに私たちは主によって変えられています。