2006年10月15日

「この身にイエスの命が現われる」 コリント(二)4:7−15

 パウロはコリントに宛てた手紙の中で自分のことを、私はとても弱い人間だと何度も告白しています。コリントに行ったときには「恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」またアジア州では「私は耐えられないほど酷く圧迫されて、生きる望みさえ失っていました」1:8 マケドニア州では「私の身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました」7:5 更に、ある人は私のことを「手紙には重々しく力強いが、実際にあってみると弱々しい人で話しもおもしろくない」10:10 とまで言っています。

 パウロはそんな弱い自分のことを「土の器」と呼んでいます。「土の器」とは壊れやすい物、何か衝撃があるとすぐに崩れてしまうもの、それほど自分は弱い者なのだと手紙に書き記したのです。私たちにはパウロはそんな弱々し人間には見えない。馬にまたがり刀を振り回しキリストに従う者を追いかける勇ましい人、多くの者から恐れられていた人、またキリストに従う者となった後も、福音を携えて世界を駆け巡り、牢に入れられも、鞭打たれても、命を狙われても屈しない強いパウロ、そのどこから弱さを感じるでしょうか?

 しかし、パウロは神を知れば知るほど自分は「土の器」のように弱く、価値のない者であることが分かったのです。私たちもパウロと同じように神と出合って自分がいかに弱い者であるか、価値のない者であるかを知りました。私達も同じように「土の器」なんです。しかし、そんな壊れやすい「土の器」の中に私たちは素晴らしい宝を持っているのです。この宝は神を信じたとき与えられる神からの恵み(キリスト)なのです。私たちの人生には艱難、苦難はつきものです。しかし、それにぶつかった時どうするのか?自分の強さに頼って生きるなら、必ず「力尽きたり、逃げ出す」時が来てしまうのです。なぜならば私たちはどんなに強そうに見えても、しょせんは「土の器」にしか過ぎないからです。

 しかし、神を信頼する生きかたは、一見弱いように見えますが、実は私たちの宝であるキリストが私たちの人生に大きな関わりもって現われて下さる。パウロはそのことを次のように言っております。キリストが計り知れない力を持って働いて下さる。その力によって私は「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」4:8 何と力に満ちた強い人生でしょうか? こんな夢みたいな人生が私たちに与えられているのです。私たちが直面している問題や困難が大きければ大きいほど、自分に与えられた「計り知れない力」を私たちは知ることになるのです。私たちは自分の器を嘆くことが度々あります。こんな器は嫌だ、もっと健康な器であったら、もっと立派な器であったら、不幸な人生にはならなかった。でも、もう嘆いたり、失望したり、ひがんだりする必要は少しもありません。私たちは一人一人どんな人間であってもいいのです。大事なことは、その中に何が入っているかです。例え高価な器でも、中に泥水が入っていたら駄目なのです。意味がないのです。私たちが困難のとき何の力にもならないのです。

 もし、あなたの器に宝がないのならキリストという素晴らしい宝を入れて頂きたいと思います。どうか皆さんの家族にこの宝を運んで頂きたいと思います。触れれば壊れるような土の器であっても、そこに、キリストという宝があるなら、素晴らしい人生になるのである。私たちの宝であるキリストについてこう言われています。「キリストは、弱さゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」13:4 私たちは主のみ元に帰るまでは悩みも痛みも尽きることはありません。だが、主と共にある悩みや痛みは、私たちを暗黒(絶望)に閉じ込めることはできません。その苦しみや悲しみが大きければ大きいほど、また主の慰めも大きいのです。