2006年10月8日

「心配の種」 マタイによる福音書13:1〜10

 世に心配の種は尽きないと言いますが、人は神のみことばの種より心配事の種の方を育てやすい傾向があります。榎本保郎牧師は「一日一章」で、聖書は2000年以上前の古い書物、しかし信じて読めば今生きる私たちの力となると語っています。大切なことはみことばの種は生きているということです。驚くべきことに、神は今日の私たちの心配事のために2000年以上前に救いの言葉を既に準備されていたのです。また、内村鑑三著「一日一生」では「霊魂とは、神を食物とする生物であります。ちょうど蚕が桑の葉のみによって生きるように霊魂は神のみを食物として生育するようにできているのであります。桑の葉が無くなれば蚕が死んでしまうように、神でなければすぐに餓死してしまうのです。」と言います。悪魔の仕事は人間の魂の食物を奪い、霊的に餓死させることです。悪魔は「誘惑」という道具を使って最小の力で最大の効果を上げることができます。最小の力とは、心配事が起きたときに祈らせない、聖書を読ませないことです。そして、神の恵みの信仰を私たちから奪い孤立させる最大の効果を上げます。それだけで人は自滅するのです。心配事は一見、罪とは関係ないことのように見えます。しかし、心配事を神と無関係に捕らえると心配の種は罪の実を結ぶようになります。へブル書12章では、罪と闘う大切さを語ります。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」罪と戦うとは、思い煩いへの誘惑と戦うことであり、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して(心にかけていて)くださる」1ペトロ5:7 ことを信じることです。一見小さなことと思える心配事がその取り扱いいかんによっては重大な結果をもたらします。

 イエスさまは、みことばを神の生きたことばとして心に受け入れなければ悪い者に奪い取られると言われます。また、信仰の根を深く下ろさなければ、困難があるとつまずいたり、育っても世の思い煩いや富の誘惑に塞がれて実を結ばないと言われました。ペトロがヘロデ王の迫害を受け牢獄に繋がれたとき、弟子達は皆集まって祈っていたと使徒言行録12章には記録されています。ヨハネの兄弟ヤコブも殺され、リーダーまで失う危機の中で彼らは心配するのではなく祈っていたと言います。主は御使いを送りペトロを開放されました。彼らの祈りに神は願い以上に答えられました。「祈ること」は主が共におられる意識です。「心配すること」とは一人ぼっちという意識です。その不安を癒すのは主イエスの約束のことばです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28:20

 世に心配の種は尽きません。しかし、神は私たちに平安を与えるために2000年以上も前にみことばを準備してくださいました。しかも、みことばには私たちの魂を救う力がある(ヤコブ1:21)のです。聖書を読まなければならないのでも祈るべきでもなく、みことばも祈りも神より与えられた恵みなのです。神は私たちがみことばを読んで悟り良い実を百倍、六十倍、三十倍結ぶことを願っておられます。みことばを心に受け入れ蓄えていきたいものです。