2006年10月1日

「祈りは叶えられるのか」 ヨハネ15:1〜10

 聖書は初めから終わりまで、祈りは必ず実現すると語ります。イエスさまは「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」マルコ11:24と約束して下さいました。イエスさまの言われる祈りとは、信頼関係に基づく神と人とのコミュニケーションであるということです。M.ルターは、十分に祈ったとは、十分に学んだことだと言い、スポルジョンは熱心な祈りは堅く閉じた扉をテコでこじ開けるようなものだとも言いました。イエスさまは「ぶどうの木」のたとえを用いて、祈りが叶えられるための2ヶ条を私達に教えて下さいました。

 第一に、イエス・キリストに繋がっていることです。それもできれば子どもが親と一緒に居るのが当たり前のように、素直に喜んで繋がっていることです。大人にとってそれは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマ12とパウロが言うように、新しい基準に生きることです。イエスさまは怒られたことが何度かあります。その一つに、イエスさまが十字架の苦難に臨まれることを告白された時にペトロが人の思いでイエスさまをたしなめた時でした。この世の痛みや苦しみを避け、その事実を認めない時、私たちの祈りは私たちにとって都合のよいものばかりになってしまいます。イエスさまは十字架の苦難を通して現される神の栄光に立ち向かい、死に勝利して下さいました。この世に倣い、この世の幸せの基準に生きるのではなく、苦しみや悲しみの中に神が存在し大逆転の人生があることを信じることもイエスさまに繋がっていることです。

 第二に、イエス・キリストのことばを私たちの中に留めることです。イエスさまの言葉が私たちの心の中にあるかどうかは人生に於いて致命的な問題です。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」コロサイ3とパウロが言うように、キリストの言葉が宿る時、私たちの祈りがたとえ聞かれず、また祈っても願ったものと違う答が与えられたとしても、そこに最善の答があることを知ることができるのです。パウロは伝道生活の中で障害となった肉体のトゲを取り去って下さるようにと3度も神に祈りました。しかし、その願いは叶わず、しかし代わりに彼は謙遜と平安とを得ることができました。彼はどんな苦しみの時にも満足を覚え、主にあって弱い時にこそ強くあることを学びました。

 神は全てのあなたの祈りに答えられます。しかし、あなたの願いに従ってではなく全知全能なる神の計画に従って答えて下さいます。それは、人の意思を無視した神の独断的答えではなく、人の願いを深く受け止め最善を尽くされる最大の答えです。そして、神の全知全能さとは、神だけが善い事悪い事全ての出来事を関連づけ、意味づけ悪い事をも良き事に逆転させることのできる唯一の方という意味です。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28