2006年9月17日

「あなたの若い日に」 出エジプト記20:12

 敬老の日を前に、私たちは目上の方々への姿勢を十戒のことばから問われます。一年の内のたった一日だけを父母を敬うということではなく、その姿勢に私たち一人一人の一生にかかわる戒めがそこにあることに気がつかなければなりません。老いることは決して何かを失くしていくことではありません。老いとは、大気圏を抜け、地球の重力を振り切って大気圏外へと飛んでいくロケットに段階が必要なように、私たちが天のみ国に近づくために肉体という重力を振り切るために、魂の自由を得るために不必要なものを捨てていく作業だと思うのです。主が「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(イザヤ46:4)」と語られるように、神の慈しみは私たちが死ぬその時まで変わらないのです。

 十戒は言語では神の十の言の意味ですが、第1戒から4戒までは「対神関係」についての戒めであり第5戒より10戒までは「対人関係」への戒めと言われています。しかし、第5戒の「父母を敬う」ことは同時に神と人との関係を具体化する教えと見ることができます。そして、それにも増して大切なことは、十戒の前文です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」神は戒めをイスラエルの民に与えるにあたり、ご自身の存在をかけてイスラエルと契約されました。一般に「特権命令」あるいは「断言命令」と言われているこの十戒は、「〜ねばならない」とか「〜であるべき」という強制命令ではなく、特別な契約に基づいた祝福への勧めと言うことができます。「もし、あなたがこの命令を強制としてではなく、あなたを選んだ神が恵みの神であることを知って信じるなら、あなたはこの戒めを守らずにおられなくなる。」と十戒は私たちに語りかけます。

 昨今、親の権威は地に落ちた感があります。「父母を敬え」というこの戒めは古く、今では人気のない戒めのように思われます。しかし、この戒めには神が賜った地で長く生きることができるという報いが伴うと言われています。長寿、子孫繁栄はどの国、文明においても祝福とされますが、その約束は「長く生きる」人生の長さだけにあらず。人生の質にあるのです。と同時に、この戒めは人間関係の基礎となるものです。マルティン・ルターは、「この戒めを守れる人は聖人である」とさえ言いました。見てくれや行いで人を見ないで、約束の言葉に立って人を見る人は、自分自身を神様の視点で見る人です。翻って考えれば、父母を敬う人は自分自身を敬うことの出来る人です。その人は、人の評価や比較によって自分自身を安く見積もることをする必要がありません。ひいては、他者を尊敬する人です。神の祝福とは人生の長さだけでなく、人との関係における豊かさにあります。それならば、なぜそうする必要があるのでしょうか?それは、ただ一言で言うならば聖書にそう書いてあるからです。神がその存在をかけて勧めて下さっているからです。その戒めは同時に両親に対する戒めであることにも気付かされます。この戒めは、父母は子供を託された者として相応しくあることを求めます。両親の愛ある子の養育は理屈を越えて子供を満たし、自分自身と人とを尊敬する人を育てるものと思います。神の報いを伴った戒めである「父母を敬う」ことは、神を敬うのと同じく、私たちの人間関係の基準となる恵みのことばであることを心に刻んでおきたいものです。