2006年9月10日

「信仰の軸」 ハガイ書1:1〜8

 島田洋七(元漫才コンビB&B)著「佐賀のがばいばあちゃん」に登場する、おさのばあちゃんは貧しさの中にたくましく生きることの大切さを教えてくれます。幼い洋七さんに「貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか。それも、最近貧乏になったのと違うから、心配せんでもよか。自信を持ちなさい。うちは先祖代々貧乏だから。」と、生きる姿勢、心の中心軸を教えてくれたのだと思います。

 紀元前586年、ネブカドネザルに率いられたバビロニア軍によりエルサレムは陥落し、イスラエルの民はバビロニアに捕囚として連れ去られます。しかし、ペルシャ王クロスがバビロニアを滅ぼし、BC539年彼は寛大政策(ユダヤ人帰国許可、神殿再建許可)の勅令を出しました。しかし、クロス戦士の後、勅令は頓挫し、イスラエルの人々は再び経済的困難、帰還民と残留民とのいさかいや周辺諸国民の妨害などにより神殿建設は中断してしまいます。そこに遣わされた預言者ハガイは、暗くなった民の信仰の中心軸を再建するために立ち上がりました。ハガイの関心は神殿建築そのものではなく、人々の霊的無気力、無関心と狂っていた彼らの優先順位の問題でした。民はエルサレム陥落前は「神殿さえあれば何とかなる」と神殿中心の信仰に頼り、捕囚からの帰還後はその貧しさの故に「神殿どころではない」と生活中心、生活優先の信仰により礼拝や奉仕の中心軸を見失っていました。ハガイは主のことばとして民に語りました。「この民はまだ、主の神殿を再建する時は来ていないと言っている。・・神殿を廃墟のままにしておきながら、自分達は板張りの家に住んでいてよいのか。」私たちは、自分の生活が順調な時には神の助けもいらないかのように生き、生活が苦しくなってくると神様どころではないと、いづれにせよ神との人格的な関係無しに生きてしまいがちです。「板張りの家」見せ掛けの豪華な家には、本当の満たしは無いとハガイは言うのです。

 「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。」それはハガイの、民に対する願い、神の祝福を回復することでした。祝福とはヘブライ語でベラカ、贈り物とか恵み、救いを表しますが特に聖別する(清められる)ことを意味します。イエスさまは、終わりの時神は民を羊と山羊とに分けられると語られましたが、聖別するとは分けられることを意味します。私たちが神より祝福を受けるための優先順位はまず嘘偽りのない信仰を求めることです。主は言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33) 主イエスは霊なる神殿の再建を三日で行なわれ(十字架の死と復活)、パウロは主イエスを信じる者たち自身が神の神殿であり、神の霊が住んでおられる所(1Cor3:16)と呼びました。神の祝福を求めて生きることこそ明るいクリスチャンとして生きる秘訣です。