2006年9月3日

「主よ、私はあなたを呼びます」 詩篇30:7−13

 私たちが神様に賛美をする時、それは一体どんな時でしょうか。嬉しい時、楽しい時、幸せな時、喜びの時かも知れません。また平穏な時は神の守りの中にある事も実感し喜んで讃美もでき感謝も出来るでしょう。しかし、ダビデは「主が御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。」7〜と言いました。 ダビデはイスラエルの王様であるが故に、いつも敵から命を狙われていました。更にダビデは側近からも命を狙われます。そんな状況の中でダビデは何も信じる事が出来ず、恐れる故に何度も神に祈りました「主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください」祈りと言うより叫びや嘆きと言った方が良いかも知れませ。 

 しかし神は何も応えてくださりませんでした。ダビデは「平穏なときには言いました。わたしはとこしえに揺らぐことはない」しかし、ひとたび窮地に追い込まれたとき、私は何と弱い者であろうか。平穏なときに私は決して揺らぐ事はないと言っていた自分が情けなかった。しかしダビデはこう言いました。「主よ、わたしはあなたを呼びます」そして神に「私が死んで墓に下ることに、何の益があるでしょう。」と迫った。わたしは今、敵に、味方に命を狙われている、恐怖に陥っている。わたしが死んだら神様、あなたに讃美はできません。今、生きているからこそ讃美ができるのです。どうか私の命を守ってくださいと貪欲に神に近づいて行きます。

 人は平穏なときよりも、困難のときの方が神に心を向かわせて行くのです。私たちの人生も平穏なときばかりではありません。昨日まで感謝の生活をしてきたからといって、今日も引き続きそういう生活が出来るとは限らない、今日も明日も一年後も平穏な生活が出来るという保証はどこにもないのです。また私たちの一日は朝起きた時から誘惑の始まりであり、また人生、何度も壁にぶち当たり嫌な思いをする事もたくさんあり、突然悲しみに出会い涙する事もあります。悲しみで感謝も出来ず、祈る気力も湧いて来ない。どうしたら良いのか全く分からない。そのような時どう思うでしょうか?

 私は神に見放された。見捨てられた。いや神など初めから存在しなかった。平穏なときは神様に賛美が出来たのに、今は嘆きと愚痴ばかり、最後には叫ぶことも、嘆くことも、祈る事もなく、口を閉じてしまう。しかしダビデは最後まで叫んだ、神様、助けて下さい、何とかして下さい。道を示して下さい。あなたが居るなら応えて下さい。「主よ、わたしはあなたを呼びます」心の底から出る嘆きは立派な賛美です。私たちも神様の存在が分らなくなる時があります。

 しかし、神は私たちを見捨てたりする事は決してありません。私たちがどんな状況(嬉しい時も、苦しい時も)にあっても、それは神の御手の中にあるのです。例え、私たちが神を忘れたとしても、神は私たちを忘れません。

 少し前になりますが、クリスチャンのご高齢の方がだんだん物忘れがひどくなってきて、自分がいつの日か神様の事も忘れてしまうのではないかと心配をしました。 しかし、私たちが神を忘れたとしても、神は私たちを忘れないのです。私たちは人生の中で多くの失敗や挫折を味わいます。辛く苦しい時もあります。不条理なことで悩みますが、それは神のもとに返るチャンスの時であります。またクリスチャンに与えられた試練は信仰の成長の時であります。私たちが自分の無力さ愚かさ、罪深さを正直に認めて神により頼む時なのです。ペテロも「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」5:6 と言っているように「心から神」を信頼し委ねること、これも賛美であります。そして神の御手にあるならば、試練に耐える力を得る事が出来、そして私たちの想像を超えた形で必ず道は開かれます。

 ダビデの賛美は届いた「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。わたしの魂があなたをほめ歌い、沈黙する事がないようにしてくださいました。わたしの神、主よ、とこしえにあなたに感謝を捧げます。」私たちは決して沈黙はしないように、嬉しい賛美、嘆きの賛美をしましょう。そして、どんなときも「主よ、わたしはあなたを呼びます」