2006年8月27日

「もう一つのビジョン」 Uコリント1:1〜7

 主イエスの救いと御言葉は私たちを救うため、自由にするためにあります。イエスさまご自身「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。ヨハネ14:6」と言われ、ヨハネは「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。ヨハネ8:32」と語りました。教会ではイエスさまがおっしゃった通り、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスさまに従うことは当然であり、自分を中心にしないで他者に仕えてこそ本当の喜びを見出すものだと考えられています。また使徒20:35でも「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」とパウロは皆を励ましました。

 クリスチャンにとって自己中心は罪の中心です。しかし、神をさておき自己を中心に置くことと自分自身が神様の愛と慈しみに満たされるために自己を管理していくこととは違います。自己中心の罪は必要でないものさえむさぼり求めますが、自己管理は自分に必要な霊の満たしに無関心ではありません。愛されたことのない人は、人を愛することができないとよく言いますが、愛に満ちた人は自らが愛されてきた人、他者を慰められる人は自らが慰められた経験を持つ人ではないでしょうか?人は「無い袖は振れない」のではないでしょうか?イエスさまは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。マタイ9:12」自分が満たされることなく自分を犠牲にして他者に仕えぬくことは人にはできません。その事実を認め、十字架の死にまで従順に従われた魂の癒し主イエスさまに私たちはまず満たされる必要があると思うのです。「〜でなければならない(ねばならない)」「〜してはならない」という規定に縛られて生きるとき、私たちの心は燃え尽き、疲れきってしまいます。

 私たちの教会のビジョンは、@互いに愛し合い、受け入れあう、主の愛と恵みとを証しする教会となること。A地域の人々のニーズを知り、それに仕え、福音を伝える教会となること。B信仰と祈りを土台とし、宣教と奉仕の業とを皆が分かち合う教会となること。C信じるすべての者がイエス・キリストと個人的に繋がる教会となること。・・です。そして、もう一つの私の内なるビジョンは、私たちがまずキリストに満たされた者となり、恵みが良い行いの動機となっていくことです。その順序が狂うとき、奉仕が狂い交わりが壊されます。「ねばならない」生き方から、恵みによって喜びと感謝とに生きる教会となりたいものです。