2006年8月20日

「三つの山」 詩篇24:1〜5
 
 詩篇は150の詩からなり、おおよそその半数をイスラエルの二番目の王ダビデが歌ったものと言われています。それは、生身の人間の創造主に対する率直な賛美と感謝そして、嘆きや悔い改めやとりなしの歌で満たされています。詩篇の凄さは、どんな時にもどんなことがあっても作者が信じる神との関係から離れず正直に真剣に向き合っているところにあると思います。詩篇24はダビデがエブス人の町、エルサレムを陥落させ、神の箱を運び入れた時に歌われた詩と言われ、ダビデは冒頭で神の偉大さを讃え、同時に人の不完全さについて歌いました。ダビデの言う、神に近づき祝福を受け救いの恵みを受けることのできるような潔白な手と清い心を持ち、真実の神から決して離れない人は本当にいるのでしょうか?「人間、いたる所に青山あり」という言葉があります。その意味は、世の中には自分の骨を埋めるぐらいの場所はどこにでもあるのだから、どこへ行っても心配せずチャレンジしなさいということです。しかし、人生の終着点は墓ではありません。むしろ聖書によれば、永遠の命は主イエスの墓からの甦りを信じる信仰を出発点にすると言います。

 そんな信仰に生きる者にとって三つの山があります。第一にホレブの山、「砕きの山」です。主の民イスラエルを奴隷の地エジプトから救おうと考えたモーセは最初自分の力でそれを成そうとして失敗し、40年もの間ミディアンの地に逃れて住まなければなりませんでした。そして、ホレブの山で「有って有るもの」と証しする真の神と出会いました。主に従うとき、私たちは砕かれ整えられます。第二にモリヤの山「試みの山」を登ることがあります。信仰の父、アブラハムはその信仰のゆえに神に喜ばれました。しかし、神は彼を試みに遭わせ、ひとり子イサクを犠牲として求められました。彼は死ぬほど悩んだと思います。しかし、彼は神に信頼し、イサクを手にかけようとしました。その時、主の使いは彼を止め、イサクの代わりとなる雄羊を指し示しました。神の要求はイサクではなくアブラハムの神に対する全き畏れでした。今、世界は信仰者と言えど畏れを知らぬ人間が拡大しています。主の山には必ず備えがあり、主にある試練には逃れの道が準備されています。そして、第三に変貌の山、「希望の山」があります。イエスさまが弟子達と共に山に登られた時、イエスの姿が変わり服も白く輝き、そこにモーセとエリヤが現れ、イエスのエルサレムにおける最後について語らうという出来事がありました。変貌のイエスさまは、死が終わりではなく、主を信じ従って生きる人にとって命の変貌であることを示し、死を乗り越えた人に与えられる新しい体を示されました。それは同時にイエスさまの再臨の姿を表すと言われています。

 「どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか。」ダビデの言葉を実現した人はイエスさまの他にはありません。神はイエスさまを信じることによって私たちを聖なる場に立ち、永遠の希望に生きる者となることを願っておられます。主の山に登る人、「それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」