2006年8月6日

「心のやりくり上手」 1ペトロ4:1〜11

 私たちの毎日の生活の中では、思い込みによる誤解で失敗をすることがよくあります。しかし、これが信仰的な思い込みによる誤解となるとやっかいなことになります。「クリスチャンの成長を阻む12の誤解」(ジョン・タウンゼント&ヘンリー・クラウド共著)は、聖書の間違った解釈によって傷ついたり、より大きな苦しみを受けてしまうクリスチャンが多くいることを指摘し、本来の意味を理解することにより癒され解放されていくことの大切さをみことばを通して語っています。イエスさまは、聖書の間違った解釈を他者に押し付ける「偽善」に対し、「『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」マタイ15:8とパリサイ人や律法学者たちを叱責されました。そして、律法の意味する愛と慈しみをお手本として示すはずの律法の専門家たちに対しても、「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない。」ルカ11:46と言われました。皮肉なことに非公式な調査によれば、本格的に聖書を学び、熱心な人よりもほとんど学びの経験がない人の方が聖書的思い込みによる傷が少ないことが分かったそうです。しかし、それは生半可な信仰生活を送った方が平和に暮らせるという意味ではなく、聖書の本来の意味を知れば受けるべき平和と幸いが生半可なものではないことを知るようになるという意味です。

 私の心に留まった思い込みの一つは、「霊的な歩みをしていれば痛みや罪深さとは無縁になる」というものです。しかし、実際には私たちは霊的に歩んだからと言って痛みや試練、罪を犯すことと無縁にはなれません。「クリスチャンは罪を犯してはならない。クリスチャンは正しくなければならない」という言葉は真実で、苛立ちや怒りといった感情を持つことは罪だと私たちは思いがちです。しかし、パウロは「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」エフェソ4:26と感情そのものが罪であるとは言っていません。むしろ、パウロは感情のやりくり(感情の管理)をしないことが罪に至らせると言っています。本日の聖書の箇所でペトロはキリスト者の正しい生き方について語ります。しかし、彼は自分の力で罪とは無縁の者になりなさいとは言ってはいません。むしろ、罪や誘惑がやってくることの現実を認め、過去の罪を認め、自分の力でそれを克服することのできない弱さを認め、率直に神と向き合うことの大切さを語っています。自分の思い通りにならないと人は怒りと苛立ちに支配されてしまいます。それは、自分は正しくあるべきとの思い込みによります。キリストは、弱い私たちに代わって罪を負って罪と戦って勝利されました。それは、私たちが既にキリストにより正しい者とされていることを理解し、神より与えられる良いものを愛により上手に管理し、二度と罪に束縛されて生きるようにならないためでした。