2006年7月30日

「十字架を背負って従う」 マタイ16:21−28

 「イエスはご自分が長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに打ち明けた」21 イエス様自身がこれからどのような人生を歩むのか弟子たちに打ち明けました。その予告に弟子たちはみな驚き恐れました。中でもそれを聞いて慌てたのがペテロであります。すぐさまイエス様を脇に連れて行き「いさめ」ました。「主よ、とんでもない事です。そんな事があってはなりません。」きっと他の弟子たちもペテロと同じ思いだったと思います。もし私たちもその場に居たらきっとペテロと同じように、イエス様どうか今一度考え直して下さいと言っていさめたと思います。また口に出して言わなくても心の中では弟子たちと同じ思いを抱いた事と思います。ある意味ペテロは他の弟子たちの思いと一緒に皆の代弁者としていさめられたのです。

 しかし、イエス様を心配していさめたそのペテロに対して「サタン、引き下がれ」と言われたのです。愛する弟子にサタン(悪魔)と言われたのです。先ほど、その場に居たら、きっと私たちもペテロや他の弟子たちと同じ思いを抱いたと言いました。であるならば「サタン、引き下がれ」との御言葉は私たちにも言われた事になるのです。ペテロがいさめたのは決して悪意ではなく善意からの思いであります。それなのに何故、サタンと言われたのでしょうか?

 実は「いさめる」と言う事は改めるように忠告する事、または制止をする事、待ったをかける事です。別な言い方をするとイエス様、あなたは間違っているのでどうぞ考え直して下さい、また何と愚かな事をなさるのですか、と言って注意をする事、つまりイエス様の進む道を遮る事に対して、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と言われたのです。このようにイエス様の道を阻む者に対して非常に厳しく迫られました。ではイエス様が言われた「引き下がれ」とはどういう事でしょうか。それは「私から離れなさい」「あっちに行きなさい」「向こうへ行きなさい」と言うのではなく、私の後ろに回りなさい、後ろに従いなさいと言われたのです。つまり、私の前に立つな、私の導き手になるな、と言うことです。実は私たちは知らず知らずのうちにイエス様の前に立ち、イエス様を自分に従わせようとしてしまう事があるのです。

 私たちは決してイエス様を従わせようなど悪意を持つ事は無いと思いますが、しかし結果的にそうしてしまう。私はこっちの道に行きますので、イエス様もご一緒に来て下さい。そしていつも私を守って下さい。イエス様の道より私の道が先、優先順位も私が上、こうして自分に従わせてしまうのです。故に私の後ろに回って御覧なさい、そうすればはっきりと見える、自分の中に悪魔が住んでいる事が分かるであろう、「神の事を思わず、人間の事を思っている」自分がいるだろうと言われたのです。人間の事を思う心は大切であります。しかし、それ以上に神の事を思う心が必要なのです。

 また「私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」24 自分の十字架とは何でしょうか?自分が苦しい思いをしたら全てが十字架と言う事になるのでしょうか? もし、そうであるならば随分自分勝手な苦しみをしておいて、それで十字架を背負っているという事にならないだろうか。そうではないと思います。また私の十字架は何処にあるかと探す必要もないのです。何故ならば主イエスのみ後に従って生きる時こそ、自らの十字架を負う事になるのです。自己中心である時はイエス様の前に出てイエス様を従わせようとする。神の子イエスが十字架で血を流されたのは私たちの野望を満たす為のものではないのです。私たちは決してイエス様の前に立つ者ではなく、イエス様の後ろに立つ者でありたい、イエス様が私たちの導き手であり、私たちがイエス様の導き手ではありません。その事をしっかりと覚えイエス様に従いたいと思います。