2006年7月23日

「変わりたい」 ルカ18:35〜43

 「救い」という言葉の意味にはただ何かから救われるという意味ばかりでなく、新しい命に生きていくという意味も含まれています。クリスチャンにとっては、福音の言葉に生きること無しに理解できない言葉だと言うことができます。神の願いは私たちが主イエスの福音を信じて救われることのみならず、救われたものとして変わっていくこと(成長、成熟・・本来の自分への回帰)だと私は思います。パウロは「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神」と言いました。私たちの魂の健やかな成長は主なる神との関係にかかっています。リック・ウォレン著「回復への道」では、心の傷、とらわれ、悪習慣からの回復を取り扱っています。痛みの経験の中には私たちの人生の中に隠された神のご計画があると言うのです。私たちの痛みや悪習慣が私たちの魂の成長をはばんでいるとすれば私たちは本来の自分を取り戻すためにそれを取り除く必要があると思うのです。あたなが人生の中で変わる必要を感じているのは何でしょうか?

 エルサレムへの途上にあったイエスさまはエリコの町の手前で道端に座って物乞いをしている盲目の人と出会いました。エリコはパレスチナでは最古の町、エジプトから脱出したイスラエル人が7度角笛を吹き鳴らし呼ばわって陥落させた豊かな町で、当時は徴税所もあるエルサレム巡礼への最後の宿場町でもありました。人通りの多いその場所は物乞いにとっては都合の良い場所だったに違いありません。しかし、その盲人の望みは生活の糧を得るだけではなかったようです。ルカ6章によればイエスの教えと奇跡の業を求めておびただしい人々がユダヤ全土から集まったと記録されています。その噂は盲人の彼にも伝わっていたに違いありません。神と人との関係の中で「変わること」は、漠然としたものではありません。私たちが本当の意味において「変わる」ためにこの物乞いの盲人に学ぶべきことがあります。

 まず第一に、「イエス・キリストを誰と呼ぶか」ということです。マタイ16:13で、弟子たちは人々がイエスさまのことを「洗礼者ヨハネ」とか、「エリヤ」や「エレミヤ」だとか「預言者の一人」だと呼んでいると報告しました。また、律法の専門家でもあり議員でもあるニコデモや永遠の命について質問した金持ちの議員は「善い先生」と呼び、エリコの群集は盲人に対してイエスさまのことを「ナザレのイエス」と呼びました。しかし、この盲人は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。それはイエスが救い主、神の子であることを告白する叫びでした。ペトロも聖霊に導かれてイエスさまの問いかけに「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し、無から有を生み出し、不可能を可能にする神と信じたのです。変わりたいと願うあなたにとってイエス・キリストはどなたなのでしょうか?

 第二に「願いの焦点を定める」ことです。オズワルド・チェンバースは「人は安易によく『私は罪人である』と言う。しかし、ひとたび神の臨在に入るなら、罪の自覚が一点に絞られ、『私はこの点で、またあの点で罪人だ』というようになる」と言いました。叫び求める盲人に対し、イエスさまは「何をしてほしいのか」と問われました。主の憐れみは具体的な形で盲人に臨みました。憐れみとはへブル語で「腸(ハラワタ)」を意味しギリシャ語では同情を意味する英語シンパシーの語源にもなっています。心の中の漠然とした感情ではなく、自分の体に痛みを覚える言葉です。主の憐れみによって本来の自分に変わり、この盲人のように神をほめたたえつつイエスさまに従っていきたいものです。