2006年6月25日

「わたしたちにも祈りを教えてください」 ルカによる福音書11:1〜10

 私達は、毎週の礼拝で、「主の祈り」を本当に心からささげているでしょうか。ともすれば、さーっと30秒くらいの間に、ただ唱えているのではないでしょうか。「主の祈り」は、六つの祈りからなっています。はじめの三つは神のための祈りで、後の三つは人間のため、つまり私たち自身についての祈りです。

T.「天にまします、われらの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ」イエス キリストは、捕らえられる前、ゲッセマネの園で、「アッバ、父よ」と祈られました。アッバとはお父さんという意味です(マルコ14:36)身近にある主を仰ぎ見、養ってくださる方を呼び、たたえ、仕えますと誓うことです。み名を賛美し礼拝することなのです。

U.「み国を来たらせたまえ」み国とは、神の国、天の国あるいは天国のことです。ともすれば、おろかな人間は、したい放題、すべてが思い通りになるところのように思いがちですが、そうではありません。神の国は、神が支配される国で、マタイ5章の「山上の説教」にある、心の貧しい人々をはじめ、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々のものなのです。イエス キリストは、復活の後、ご自分が生きていることを、多くの証拠をもって使徒達に示され、40日もの間彼らに現れ、神の国について話をされました。(使徒1:3)勇気づけられた弟子達は、聖霊を受け伝道の道へと導かれ、私達も福音を受けることができました。

V.「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」み心とは人間に向けられた神のご意志です。主なる神のその最大のご意志とは、そのひとり子イエス キリストを、われらの罪を救うために、この世に送られたことです。人間は、どうしても神のみ心から離れ、自己中心になりがちです。自己中心が罪です。ですから神は、私達の性(さが)をご存知で、「自分を愛するように、隣人を愛せよ」と教えられたのです。(ルカ10:25〜27)

W.「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」日本人は、ともすれば食べ物を求めることは、いやしいことだと思いがちです。しかし、これほどお父さんへのお願いとしては、自然で、切実なものはありません。私達の命は神からの授かりものであり、その命を支える食べ物は、神からの恵みです。イスラエルの民が、40年もの間荒れ野をさ迷ったとき、主はマナを降らせました。(出エジプト16:13〜26)いま世界の5分の1の人口が十分な食物を得ていない、そのうちの100人にひとりは飢えているということに、思いをいたしましょう。

X.「われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」わたしはかつて、この祈りを条件交渉と見たことがあります。先ず自分の罪を赦してもらうことが先ではないかと、、、。でも本当にむつかしいことは、ひとを赦すこと、そうして謙虚になることです。傷つけられた人々は傷つけた人々をたとえ赦しても、その傷を忘れることはできないものなのです。日中関係や、日韓関係は、まさにそういうものでしょう。

Y.「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」試みは、誘惑ともいわれ、試練でもあります。イエス キリストは40日間悪魔からの誘惑を受けられました。(マタイ4:1〜11)「石をパンにかえよ」とか、「神殿の屋根から飛び降りよ」とか、「ひれ伏して拝むなら、すべての国々を与える」などの誘惑を受けられましたが、「サタンよ去れ」「あなたの神である主を試してはならない」「ただ主に仕えよ」と悪魔を退けられました。私たちは、外からの誘惑どころか、自分の利益のために、他人の不利益や、不幸を願うという、内からなる悪しき思いをもつことがあります。これこそ私たちの心の中にある、罪であり、救いが必要なのです。
 「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」すべてのものは主なる神に属するのです。ですから、わたしたちは、ひたすら熱心に、そうして執拗に祈ることです。遠慮はいりません。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」と主は教えられました。(ルカ11:9)