2006年6月18日

「共におられる神」   ヘブライ人への手紙11:8〜16

 「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ11:1」」ここに記されている信仰は漠然としたものではありません。11章では、神さまへの信仰に生きた人たちが、どのように神さまの信仰に生きたかが記されています。これらの人たちは、神さまの言葉に聴き、そのとおり従いました。アブラハムは、平和な生活を送っていました。ところが突然、神さまから「今住んでいるところから出て、私の示す地へ行きなさい」との言葉を聴き、「これに服従して行き先も知らずに出発」しました。不安と危険を克服して、やっとの思いでたどり着いた土地、神さまから約束された土地には先住民カナン人が住み着いており、アブラハムが住めるようなところはありませんでした。

 しかし、このようなアブラハムを神さまは励まされました。「空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように多くの子孫」を与えると、約束をしてくださいました。このことを約束してくださった神さまは真実な方であると信じたので、アブラハムは苦難や試練を厭わずに神さまに従うことが出来たのです。モーセも豊かな生活を送っていました。のんびりと豊かに暮らそうと思えばできたにもかかわらず、「エジプトの地で虐げられているイスラエルの民をエジプトから救い出せ」との言葉を聴いて従いました。モーセは当初、自分にはその様な力はない、ほかの人を遣わしてくださいと抵抗しますが、「私は必ずあなたと共にいる(創世記3:12)」という神さまの言葉に聴き従い、苦難の道を選び取って行きました。苦難や試練はあっても、それらをはるかにしのぐ報い、恵みを信じたので神さまに従うことが出来たのだと思います。モーセは40年かけて、やっと約束の地カナンの手前まで来ますが、約束の地を遠めに見るだけで、カナンの地を踏むことが出来ずに生涯を閉じます。

 結局、アブラハムもモーセも約束のものは与えられませんでした。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、(ヘブライ11:13)」とあります。たくさんの試練と困難に会いましたが、その都度神さまはアブラハムやモーセと共にいて導いてくださいました。ですから、約束のものは、今は与えられなかったけれども、その約束は必ず与えられると確信して喜ぶことが出来たのだと思います。

 現在私たちの目の前にも困難なこと、乗り越えることが不可能と思われることが山のように立ちはだかっています。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリント第一10:13)」。この世の中には試練はあります。信仰を持っていても試練、苦難はいままでと変わらず同じように襲いかかります。しかし、神さまは私たちのために必ず逃れの道を備えると約束してくださっています。これは試練を無くしてくれるというのではありません。自分が神さまに頼る以外にない弱い者であることを知り、神さまに委ねていくとき、試練、困難を突破する道を開いてくださいます。

 「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。。第一の日である。(創世記1:5」」私たちは、朝があり夜になり一日が終わると考えていますが、神様の「時」は違います。「夕べがあり、朝があった」と記されています。暗い夜を貫いて必ず朝を与えてくださる神さまです。神さまは不安な夜から必ず朝を与えてくださいます。どんなときでも神さまは必ず私たちと共におられます。今、私たちに与えられている神さまからの試練、チャレンジも共にいて最善を導いてくださる神さまに委ねて歩んでまいりたいと思います。