2006年6月11日

「からし種一粒の信仰」 ルカによる福音書17:1−6

 聖書の中には「からし種」という言葉とそれに関する譬えが出てきます。「神の国は何にたとえようか。どのようなことで示そうか。それはからし種のようなものである」マルコ5:31 「からし種一粒ほどの信仰があれば、『この山に向かい立ち上がって海に飛び込め』と言ってもそのとおりになるだろう」マタイ21:21など、この様に「からし種」が神の国に例えられたり、山を動かす程の信仰に例えられていますが、からし種とは一体どんな種か、ユダヤでは、最も小さな物の代表として「からし種」が用いられていました。それはどんな種よりも小さくて1mm位しかありません、この小さな「からし種」の実が偉大な成長を遂げるのです。

 さて私たちは普段の生活の中で物事が順調に行っている時は信仰をあまり意識しません。しかし何か試練にあったり、大きな壁にぶつかった時に自分の信仰を知らされる。例えば、自分で良く分かっていながら間違いを起こす。これではいけないと悔い改めて信仰の決意をするが、持続するのはほんの僅かであり、その決意はたちまち崩れてしまう。心の中では神様の御心に反する思いに支配され信仰が分からなくなったりもする。そんな時に自分は何と信仰が弱いんだろう、自分は信仰に対して何か欠けているんではないか、祈りをしている時もそうですが、さまざまな機会に思い知らされるのです。

 また弟子達も、何度もその痛みを経験しました。愛を持って教え、世話をしてきた人に何度も裏切られ、時には心に傷を負い、自信さえ失いました。彼らは「主よ兄弟が私に罪を犯したなら何回、赦すべきでしょうか?七回までですか?」と問う、仏の顔も3度までという言葉がある様に、どんな人でも3回も赦せば寛大な人と呼ばれるでしょう。そういう中で7回はどれほどの忍耐が必要になるでしょうか、しかしイエス様は赦しについて「七回どころか七の七十倍赦しなさい」マタイ18:22と仰せられました。これは数の問題ではなく、常に赦しなさいと言う事なのです。

 しかし、どうでしょう、そう何度も赦していたら相手が図にのってまたやるんではないかと思ってしまう。弟子たちも無限の赦について、どうか許せるように信仰を増してください。そうすれば赦せる様になりますと言うしかありませんでした。みなさんこの言葉をお聞きになってどう思うでしょうか?信仰が増せば、弱い私が強くなれると思う。信仰が増せば、どんな艱難や苦難が来てもびくともしない、私の祈りが聞き入れられないのは、きっと信仰が弱いからだ、先ほどの弟子たちもそうですが、信仰さえ増せば相手のことを赦せると思った。私たちも、赦せない相手を赦さなければならない時、どうか私に相手を赦す事が出来るように信仰を増してくださいと言わざるをえない、イエス様は信仰を増して下さいと言う私たちに、こう仰せられました「からし種一粒」の信仰があれば良いと言われました。

 最初に「からし種一粒」の信仰とはどういうものか考えたいと言いましたが、それは小さいけれど確実に存在する物、?この一粒の信仰さえあれば「この桑の木(根が硬い)に、抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言う事を聞くだろう。「あの山に向かって海に飛び込めといえば、その通りになるだろう」と仰せられる。私たちの心の中に立ちはだかっている障害物、桑の木のように根を深く広げ、抜く事も出来ない、山のように大きくぴくりとも動かない。私たちの力や知恵、努力ではどうする事も出来ない問題を取り除いて下さるのは私ではなく神様なのです。

 信仰を増して自分で何とかするのではなく、一粒の小さな信仰で良い、主イエスを信じ、信頼することなのです。一粒の信仰を与えられたことに感謝しましょう。